野村晶三(元(一社)全国警備業協会初代研修センター長)① 【私の警備道】~第1回 セールスマン時代の前職~

警備事業を営みながら全国警備業協会の教育事業に貢献しつつ平成13年初代研修センター長に就任、在籍13年間、「研修センターふじの」の開所、「警備業法16年改正」に取組み、「学校施設の安全管理に関する調査研究協力者会議(文部科学省)」、「放置駐車確認事務の民間委託に関する検討委員会(警察庁)」に参加、セキュリティ・プランナー及びコンサルタント資格制度の創設では中心的な役割をはたすなど奇才を発揮し、協会事業に貢献した。
第1回 セールスマン時代の前職
昭和53年(1978年)10月愛媛県に出張していた。販売実績はあまりよくなく月末を迎えようとしていたとき、ポケットベルが鳴った。広島支店からだ。昼の実績報告の電話を掛け、セクレタリー(支店長秘書)に用件を聞くと「Aさんという男性から電話が欲しい」との伝言を聞いた。すぐに誰か分かった。どういう経緯で私の勤め先を知ったのか不思議に思いながら電話をした。A氏が電話に出て、いきなり「できるだけ早く会いたい。」と言われ、ちょうど2週間の出張も月末で終わる予定だったから、承諾して電話を切った。短い会話だったが久し振りに緊張した。
アメリカ式セールス
当時勤めていたのは、国際教育開発(株)(東京都新宿区本社)の広島支店に所属し、親会社である某テレビ局の放送開局20周年記念事業(当時)として作られた、「ブリタニカ国際大百科事典」のクリエイター(販売員)である。
百科事典1セットを販売すると、クリエイターに数万円の販売手数料が入る。ベテランともなれば1月に20セットは確実に売る。また、一つの課を任される課長になれば、通常部下が6人いるので、その部下が売った1セット当たり数千円が課長に入る仕組みである。よって、部下6人全てが20セットを売り、自分も20セット売れば、月収はかなりの額となる。
そんなセールスだったので、まだ30歳前の若輩者の私でもトヨタの高級車を乗り回すなど、リッチな生活ができた。その反面、実績は月が変わるとゼロからのスタートとなる。課長や支店長になっても実績査定によって販売ノルマを一定期間クリアできなければ、支店長は課長に、課長は主任に、そして主任はクリエイターに降格する。課長から降格すると厚生年金、社会保険などはなくなり、正社員待遇から委託販売員のクリエイターに降格するのである。クリエイターはフルコミッション制のため固定給の保証はない。よって、宿泊費、車両費、ガソリン代などのかかる費用の全てが自己負担である。努力しても売らなければ成果を得られない、極めて分かりやすく合理的な仕組みとなっていた。

したがって、今月稼いだから次の月も稼げる保証はない。それがプレッシャーであったし、常に付きまとう不安感でもあった。クリエイターの中には、「いつでも稼げる」と安易な考えを持つ者もいるが、そういう者は半年も続くことなく去っていかざるを得ない低収入になる。
それほど厳しい仕組みのセールス時代、「生きる」ということをはじめて考えさせられた部下を持った。
入社してから順調に実績を残し、主任となった。そのとき、45歳前後の新人が4人入ってきた。これまでの新人は、一攫千金的な考えの若者が主体であったが、この頃には、事業に失敗して借金の返済のためなどを理由に、高収入を目指して入社する者が多かった。
その中に、大手警備会社の福岡支社を辞めて入社した下垣(仮称)という45歳の新人が私の部下として配属された。
新人としての3か月間は研修期間である。よって、その3か月は25万円の固定給が保証されている。つまり、保証されている期間に主任が指導をして、独り立ちできる力を実践で培う仕組みである。
下垣さんは、大手警備会社の営業を経験しているためか、アポイント(商品説明の承諾を取る)の取り方やそのステージセット(社員等を数人集めてもらうなどの協力依頼をする。)も整えるなど、しっかりとしたアポを取った。そして、しっかりしたアポイントがコンスタントに売れる環境を作るので最も大事なことである。
私の販売チャンネル(販売する業種)は銀行と会計・税理事務所だった。昼間プレー(昼休憩を利用しての販売)はほぼ毎日銀行の支店の行員が対象である。アポインとは取りにくいチャンネルではあるが、取れれば5・6人を対象とした商品説明ができるし、対象者が高収入者であり、向上心が旺盛な人が多いので、2セットぐらいは売れるのである。そういう結果となれば、それぞれ1セットの販売実績となり、1人3万円の収入となる。ところが、売れないときは悲惨である。昼間売れなければ、夕方のプレゼンテーションは税理士事務所、そこでも売れなければ企業の独身寮、さらに売れなければ交番を訪問して、警察官を対象にプレゼンテーションを試みるので、宿泊施設(ホテルや旅館)に帰るのは12時を過ぎる。
そういう厳しいセールスの日々ではあったが、こんなことも時にはあった。一人立ちした下垣さんが地方銀行の労働組合が福利厚生の一環で行われているサークルで商品説明のできる機会を得た。人数も多く自分では手に負えないので私にプレゼンテーションを依頼してきたのである。部下の依頼を受けて行ってみると100人近い人達が集まっていた。もったいぶった20分のプレゼンテーションからクロージングを掛けたところ、反響は大きかった。12セットが売れた。帰るときには大きな拍手も受けた。一人2セットずつの収入となった。こんなことは極めて稀ではあるが、実際のことである。
命を断つ絶望
こうして力を付けた下垣は、同期の一人とコンビを組んだ。実績ははじめから2か月連続で20セット前後を売った。年齢的なキャリアもあってセールスマンとしての力はあった。
ところが3か月目に実績は落ち、売れない月が続いた。彼とトリップ先が違っていたので、売れない理由は定かではなかったが、次の4か月に入ってガス自殺を図った。一命は取り留めたと聞いていたので、出張先から病院に駆けつけたときには、4日を経過していた。
そのとき本人からある飲食店のママに一目ぼれして、ほぼ毎夜通っていた。それでは実績が低迷して収入は減り、そのうち金も底を着き、最後は消費者金融で借りた全財産を馬券に託し、それが外れたら死のうと決めていたと、本人から聞き、正気の沙汰ではないと思った。勿論正気では死ねない。
意気消沈して絶望的な状況下ではあったが、「気持ちを切り替えもう一度引っ張るから復帰しよう。」と言うと、うなずいた。よしと自分に言い聞かせ病室を出た。そのとき、「下垣さんの身内ですか。」と付き添いのおばさん
から声をかけられた。そのおばさんは、深刻な顔をして「おしっこが出ないので長くないかもしれない。」と言った。「えっ」、と絶句したものの、思いのほか元気そうであったから何を言い出すのだろうかと不信感を持ちながら病院を後にした。

ところが2日後、彼は危篤状態となって亡くなった。付き添いのおばさんの言うとおりであった。彼のお兄さんは警察官と聞いていたが、亡骸を引き受けに来なかったと聞いた。彼の歩んだ道にどんなことがあったのかを知る由もなかったが、自ら命を断つほどの絶望などあるのだろうか。命さえあればなんだってできるではないかと思うほど考えさせられた。45歳ともなれば夢を追う年齢ではないのだろうかと思いもしたが、まだワンチャンスはあると思いつつ、死を選ぶ勇気は自分にはないと自己認識したのは、忘れられない。
下垣さんとは数か月の付き合いであったが、亡くなった10年後に思わぬところで縁があると思う出来事があった。そのことは後述する。
一般的な販売セールスは、車のセールスで代表されるように、顧客の紹介や車を乗り換えるときには再顧客となったりして、次の販売を支える顧客となる。しかも、販売の工夫や努力が営業力を培う糧として身に付き、営業の成果が蓄積されるのである。そして、その蓄積された顧客から新たな顧客を紹介されて次のセールスへ生かされるので、顧客はセールスマンの財産となるのである。
車なら2台買う者もいるが、同じ百科事典を2冊買う人は、いなくはないが極めて特殊な例である。
そう思いつつ、いつしか長くやる仕事ではないと常々思っていた。
口で言うより実態は厳しい。それでも多くの思い出と戦友と言うべき友もできた。
いつ振り返っても、この時期に学んだことが営業の原点であり、その後の人生に大きな力を与えてくれたと、実感することが多々あったことを今も思い返す日々である。
苦楽の友、短かった2人の人生
在籍中、特別に仲がよかったのが2人いた。私が辞めたその年の末にその1人勝浦氏(私より5歳年上)は、昭和54年(1979年)住宅販売会社を島根県松江市の地元で起業して成功した。ところが50歳のとき喉頭がんの末期と診断され、半年後(平成3年8月)に短い人生を終えた。またもう1人の細谷氏(2歳年上)は、損害保険会社の代理店となっていた。地味ではあるが安定した商売を続けていた。だが、彼も50歳のとき、胃がんの末期と診断されてから数か月後(平成5年)に亡くなった。
勝浦さんの葬儀に伺うと、奥さんから息を引き取る直前に「ウアー」と、とてつもない大声で叫び息を引き取ったと聞かされた。その大声は、死ぬ悔しさを家族に伝えたかったのだと奥さんは言っていた。私はその言葉を聞き勝浦さんらしいと思いながら勝浦さんの悔しさを率直に理解できた。
クリエイター時代2人で組んでセールスをする機会が1度あった。そのとき勝浦さんが、「2人で日本一の実績を出そう」と言った。結果はそこまで売れなかったが、最後までターゲットに食らいついて必死で説得して販売する「説得話法」は見ごとだった。昼売れなかったら夜交番に行って若い警察官を捉まえマン・ツーマンで売り込み、それでも売れなかったら社員寮に行って、買うまで寝かさなかった。そんな強いクリエイターだったから入社1年で課長になった。

対照的に細谷氏は、百科事典のネガティブな要素を1つひとつ潰しながら納得させて買わせる「納得話法」のセールストークで売った。
当時の百科事典の販売方法は、平常心を失わせて感情を高ぶらせ、衝動買いをさせなければ売れない商品なのである。よって、セールス話法は「欲しがらせ」衝動で買わせる方法で売った。新人研修でも担当者が驚きのセールストークで商品説明をしながら応募者の感情をコントロールして、素晴らしい商品であることを理解させて欲しがらせ、243,800円の商品を即答で買わせる手法を実際に見せる。「誰でも同じように説明すれば売れる。」つまり、「世界一の百科事典である。」この商品そのものは「価格以上に価値がある」ことを徹底的に刷り込む洗脳型の研修である。
商品の性格上「あれば役に立つ。」が、「なくてはならない物でもない。」要するに必需品ではなく、しかも高額な商品である。よって、セールスマンの力量次第で売れる者と売れない者との差が歴然と数字に表れるフルコミッション制の厳しい世界であった。当時は、英語版、英語版をそのまま日本語に翻訳した日本語版ブリタニカなど、よく似た商品が数点あった。いずれもブリタニカ商法とも言われた販売方法である。収入に天井はないが、どんなに努力をしてもその結果売れなければ一銭にもならない。同期6人のうち、半数は入社数か月後には辞めて行った。
セールスマンは詐欺師ではない。よって、騙して売ることはできない。しかし、やるべき手法はいくつかあった。ターゲットのネガティブ要素を「説得話法」と「納得話法」をクリエイター自身の性格や年齢、そして実践経験を積みながら磨くセールスが販売技術なのである。
私も新人時代は、毎晩夜遅くまでプレゼンテーションを磨き、オーム返しと言う話術の研究を欠かすことはなかった。50年たった今でも忘れてはいないどころか、売れるかもしれないと思う方が未だに強い。若い時の記憶や考え方が今も身体に染みついているのであろう。
売れない豪雪の北陸、思い出は温泉

昭和51年12月、石川県の北陸支店にいた。新人を育てるために実績のよかった3人が乗り込んだ。
この年は記録的な大雪で、すでに2メーートル近い雪が積もっていた。北陸では、「弁当を忘れても傘を忘れるな。」と言うほど、雲に覆われた空は低く1日たりとも終日陽が差す晴れた日はなかった。
服装は三つ揃いのスーツに長靴、右手に傘を持ち、左手に百科事典のサンプルの入った重い鞄という出で立ちである。両手が塞がっているので、足元もおぼつかない歩き方で企業訪問する。事務所に入ると必ず長靴を脱ぎ、スリッパに履き替える。何とも威勢がない。
こんな天候や環境には慣ず、気力を支える精神力も低下し、売る前から気力も上がらない。これでは本が売れるわけがない。
そんなある週末、ホテルでマッサージを受けていたら、そのマッサージ師から「お客さんまだ若いね。」、「若い人が情緒豊かな金沢で、くすぶっていてはだめだねー」、「山中温泉にでも繰り出して、芸者を挙げて三味線に太鼓を叩いて遊ぶのも粋だよ。」と言われ、これにすぐ反応したのが勝浦さんだった。後は申し合わせたように、さっさとマッサージを切り上げ支度して、山中温泉に繰り出した。言われたとおり、芸者を挙げて太鼓・三味線のどんチャン騒ぎ。かかった費用は数十万円であった。翌朝少々反省はしたものの、週末になるとソワソワする気を抑えきれず、再び山中温泉に向かった。3人とも芸者遊び(野球拳や3婆)にハマってしまい、山中温泉通いが1か月続いた。
こんなことだから実績が上がるはずもがない。新人の育成目標には程遠く、気が付くと100万円近い赤字出張となっていた。しかしこの経験は、3人が会う度にこのときの思い出に酒も笑いも尽きなかった。まだ私は30歳前のことである。
今振り返ってみると、苦しいセールスではあったが楽しい思い出もたくさんもらい、その後の人生に役立つ経験を培えたような数年間であった。その後、この経験が警備業の営業に大いに役立ったのである。
警備業に入るきっかけ
出張を終えたその足でA氏の自宅を訪ね、A氏と妻の片岡彩子氏と会った。
話の内容は、簡潔明瞭に説明された。「警備会社を作ったので、営業の責任者をやってほしい。」ということであった。具体的には、仕事の受注見込みはあるものの、警備会社から引き抜いてきている者達では安心して任せられない。スタッフとして入り、妻を支えてほしいという趣旨であった。

直感的に面白そうな事業だと思った。また、は じめての事業であり、自殺した下垣さんが警備会社にいたことも頭をよぎり、「警備業」に興味を持った。そのような心境であったから、給与や待遇などを全く聞かぬ間に「分かりました。やりましょう。」と返事をしていた。これが警備業に入るきっかけとなり、昭和53年(1978年)10月29日の日曜日のことであった。
そして翌日、広島市のオフィス街にある広島支店の恵木支店長へ退職届を出した。当時の恵木支店長は、心配して引き留めてくれたが、最後は退職届を受け取ってくれた。そのとき、「僕が辞めるときには声を掛けるから」とも言ってくれた。後ろ髪を引かれる思いで支店を出た。
その恵木支店長は、数か月後に日本の大手出版会社に引き抜かれたと聞いた。
恵木支店長とは不思議な縁があった。広島駅付近で私は20代の頃喫茶店を経営しているときに、その店の空きスペースにゲーム機を置かせてほしいと熱心に日参してきた人が広島支店長の恵木さんだったのである。
その恵木さんの営業姿勢と穏やかな表情、丁寧な言葉遣いが不思議な安心感を受け承諾した。
私は全く覚えていなかったが、恵木支店長は私のことを「若いのに丁寧に対応をしてくれる人だ。」と覚えていたらしく、私の面接時には「この人なら百科事典を売り切るだろう。」と採用したことを後に聞かされた。
当時、ずいぶんと励ましていただいた。このクリエイター時代に知り合った人の中で、もう一度会いたいと思う唯一の人でもある。
第2回連載は近日公開予定







