野村晶三(元(一社)全国警備業協会初代研修センター長)② 【私の警備道】~第2回 不思議な魅力、交通誘導警備~

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第2回 不思議な魅力、交通誘導警備

昭和53年(1978年)11月1日が警備社HKへの初出勤日である。
国道2号線バイパスの一本黄金山側(広島一の有名な夜景スポットが3箇所あって多くの人が訪れます。)に入った市道路沿いに事務所があった。
片岡彩子氏が副社長、役員は8人、管理職3人、警備員は6人である。その頃は、片岡彩子氏の弟のB氏は社長ではあったが、お兄さんの焼肉店を任せられて店長をしていたので、責任者は片岡彩子副社長であった。
片岡彩子氏との縁は、数年前に遡る。当時片岡彩子氏の住まいがあった江田島市大柿町の自宅で友人から紹介されたのが縁である。
≪明治から昭和初期に建てられた広島湾防衛施設のある江田島≫

江田島には、広島湾防衛のため明治の頃から様々な旧海軍、旧陸軍の施設が置かれました。今でも当時の遺跡が島内 各地に残されています。また、第二次世界大戦時の、空襲時に沈んだ旧海軍軍艦の慰霊碑や、旧陸軍の海上挺進戦隊の慰霊碑があります。先の大戦以来、日本は戦争をしていない平和の時代となりましたが、今一度、これらの戦跡を見て平和を感じてみましょう(江田島市観光協会)。
広島市内の一等地に「優雅で華麗な店を作りたい」という要望であった。当時店舗設計では抜群の人気があった蒲生氏を紹介した。設計から店舗が落ち着くまで1年近く関わったが、その店を離れる少し前に、男性スタッフとして入って来たのが片岡彩子氏の弟のB氏である。男性スタッフとしての役割を教えた記憶がある。
警備会社の事務所は10坪もなかった。間口は狭く奥に長い形状で、左奥にパーテーションで囲った応接スペースがあり、そこに役員がいた。真ん中の通路を挟んだ右側が管理職の机である。私の机はなかった。I警務部長、H業務部長、N課長だけに専用の机があった。

初日は3人が何をしているかを見ながら1日の仕事の流れを把握するだけであった。ところが数日後には、近くのライフライン工事の現場に連れて行かれ、赤・白の手旗を手渡され、交通の流れが混雑しないように誘導するようI警務部長から言われ、一人現場に残された。いよいよ、交通誘導警備員としてのデビューである。
道路は片側1車線対面道路でバスも通る。結構車も人通りも多い。通行は片側の道路端に供給管を埋設する工事である。よって、車は工事現場を避けて道路の中央を通るよう誘導し、歩行者は、工事現場に沿って作られた仮設歩道を通るよう誘導するのが私の仕事である。最初の仕事としては適度の交通量もあったので、ちょうど良い具合の緊張感もあり、それらしい誘導をしているうち1日目はあっという間に終わった。報告書にサインをもらって「ご苦労さん。明日もよろしく」と責任者から声を掛けられたときには、警備員としての達成感があった。
道路工事や建築現場で旗を振っている制服姿の誘導員は知っていたが、これが警備会社の仕事であって、誘導しているのが警備員であることを知ったのは、この会社に入ってからである。その程度の知識ではあったが、やってみると意外に交通誘導という警備員の必要性を感じ取った。
この現場警備は4日間続いた。毎日8時には現場に立ち、昼は1時間の休憩がある。その休憩時間を楽しみにしながら動き回り、「休憩」と言う工事責任者の声を聞いた瞬間が何とも言い表せないぐらいホッとする。この休憩時間が癖になるぐらい覚醒され、午後の活力ともなるのである。しかし、現場によってはその休憩すら取れない所もあった。

交通誘導警備員の日給は、拘束8時間実働7時間で5千円である。当時の警備員6人全員が日給制であった。いつまで警備員をするのかI警務部長に聞くと、「次の警備員が入るまで」と返事が返ってきた。立ちっぱなしで足が痛いのがようやく慣れた頃、新しい警備員が入ってきた。その者を連れて現場で指導するのである。警備員として採用されると1日の新任教育を受けたら、次の日から現場に入り、実地で指導を受ける。これが実践的な教育訓練だという。複雑な誘導でなければ、普通1日もあれば交通誘導はできるし、1週間もすればベテラン警備員である。当時の警備員教育はこんな状況であった。
年末までほぼ毎日工事現場の警備員をやりながら、交替の新人警備員が来たらその警備員を指導してその現場を離れ、営業活動を行うといった繰り返しの日々が続いた。
I警務部長が現場数に警備員を振り分ける夕方、内勤者の明日の行動パターンが決まるという現場優先の毎日に顔は見る見るうちに日焼けし、額の白さと耳から頬に日焼けせずに残った「Y字」型の顎紐の跡が何とも恥ずかしかった。
給料が安いのも驚いた。月給は15万円である。よって手取りは12万円を切っていたように記憶している。しかも、車は持ち込み、ガソリンだけが会社持ちという普通に考えると無茶苦茶な人使いである。
こんな状況下にありながら嫌な記憶は全くない。むしろ、楽しかった記憶しか残っていないのである。
子どもの頃からどちらかといえば、目新しいことに興味があり、また、考えて行動するより、やりながら考えるのだから行動に無駄も失敗も多かった。また時には、周囲を巻き込んで迷惑をかけたりすることもあった。しかし、自我自賛するわけではないが、いい悪いはあるにせよ必ず学習する習性が身に付いているので、最終的には一定の成果を残すことができた。だから去った会社や業界から非難されることは一度もなかった。
今振り返ると、母親が早く亡くなった幼少の頃、父親は出張が多かったから子どもだけでの生活の中で、必然的に培われたフットワークの良さだと思うことは多々あった。
よい結果が出れば「才能」と言われ、悪い結果のときには「癖」と言われたものだ。
どんな形態の交通誘導警備業務も難なくやってみせた。しかしやっているうちに不思議に思った。その一つは、交通誘導警備員の誘導に一般の人や車両が従うことだ。二つ目は、警備員によって誘導の合図が違うのにもかかわらず、一般の車両や人がそれを理解していることだった。
つまり、警備員の交通誘導というものが社会に認知されていることに驚いた。とりわけ、道路工事に伴う警備員の誘導が、交通ルールの一つの役割として確立できていることに気が付いたからである。まだ経験も浅い時期にもかかわらず、将来性のあるビジネスとして成り立つと思ったし、面白い仕事だと実感した。
会社創世期の逸材
昭和54年の年が明けて早々に、小柄で頭は天然パーマ、そして頭が大きく顔は小さい神経質そうではあるが、賢そうな若者がアルバイト採用で入ってきた。この青年が、後にこの会社を支えた一人、山伸(仮名)君である。ところがこの頃は、ほぼ毎日遅刻をする。ときには、出社しないのでアパートへ起しに行くことも再三あった。聞いてみると公認会計士になるために警備員のアルバイトをしながら、その合間に勉強をしているという。つまり、遅くまで勉強しているから起きられなかったようである。しかし、数か月すると現場での仕事ぶりも評価され、面接採用した副社長も気に入っていた。1年後には、本部の管制官(警備員を配置する部署)の要になっていた。

2年目に入った頃には、警備員の能力や現場の状況を把握して、的確な配置をこなしていた。しかし、公認会計士になることはまだあきらめてはいなかった。彼がこの会社に落ち着けば、将来この会社を背負って立つ一人になると確信していた。それぐらい群を抜いた存在感があった。その評価の要因は、任された仕事への責任感と達成力である。
設立から7年目に東広島市に支社を設置したとき、支社長に抜擢された。その後、役員となって、定年を迎えるまで業績を拡大し続け、最も大きな功績を残した。
山伸君の実家は、支社があった東広島市の隣町の農家の長男だったから、支社長を務めながら農家を継続していた。
私は、平成8年に会社を去った後、一度だけ電話で話したことがあった。懐かしそうな口調で語り、電話があったことを喜んでくれた。しかし、あれだけタフだった彼が、人生を癌で終えた。
彼が亡くなったことは知らなかったが、亡くなった後の法事に線香を挙げさせてもらった。印象に残っているのは酒を飲まず、いつもコーヒー牛乳を飲みながら、警備員が足らないときには真っ先に現場に出て行き、夜遅くまで管制業務を行っていた。物静かではあるが、タフで行動力と忍耐力に優れている印象が残っている。晩年の山伸君に会っておきたかったと黙祷した。

山伸君が入ってきた同じ頃、倉本という 若者が入ってきた。その数日前、副社長から紹介された女性がその若者の母親である。いきなり、「息子をよろしくお願いします。」と頼まれた。何ごとかと思ったら、すぐさま副社長が、「ノンちゃん、営業を教えてやってくれん。」と言う。大学在学中に結婚して子どもができたので大学を中退し、この会社の営業マンとして採用することになったので、営業マンとして育ててほしいというのである。本人に会ってもいないし、気持ちも聞いていないのに、頼まれても意味をなさないと思ってはいたが、断る理由もないので承諾した。そして、数日後、本人と会った。
真面目で実直そうな目をしていた。どちらかといえばエンジニア向きに見えた。嫌いなタイプではないが、営業向きではないように思った。だが、初日から営業に取組む姿勢は立派だった。何も教えていないし指示もしていないのに、初日から毎日帰社するとその日の活動を1時間ぐらいかけて、詳細にノートに書き込んでいる。この1日の行動記録が無駄のない毎日の行動となり、時には、失敗の反省、また時には、成果の記録となって、彼の営業活動に大きく役立ったのではないかと後に思った。
最初の仕事は、既存の契約先回りである。この定期的な契約先回りが、苦情になる前のアフターフォローにもなるので、不満の段階で対応することができるから苦情に至らないのである。また、新しい現場情報も収集できるので、
新規の飛び込み営業は少なくても実績は付いてきた。極めて効率のよい営業方法である。営業用語で言えば「芋づる方式」の営業活動である。
このような彼の営業があって、私は、専ら新規の営業に専念でき、後に、施設警備業務や大きな物件の受注ができるようになる。
彼も先の山伸君と同様に、後に役員となって営業部門の要となり、会社を支えた一人である。
若かったからできた。なり振り構わずやる集団
年が明けて数か月が経った頃、社内に不正が発覚した。I警務部長の横領行為である。

その手口は、警備員が残業をしたように見せかけて、その残業代を着服していたことが発覚した。これによって、設立時に引き抜かれてきた幹部3人の信用は失墜した。
当時の運営主体は、実質の出資者で株主の副社長が実権を持っており、I警務部長の不正発覚からは、この会社のために引き抜いてきた残る2人の信用も失墜し、自然に私が営業活動の主体となって活動する方向で全体が動き出していた。
ところが、不正をしたI警務部長が辞め、続いてH業務部長も辞めていった。さらに、それらを連れてきたT常務取締役は、結核のため休職扱いとなっていたので、警備業務を知る者は誰もいなくなったのである。

交通誘導警備業務といっても、工事に伴うものには、舗装、道路工事とあるが、その工事には側溝、保安施設、道路標識、水道、下水、雨水、電気、ガス、伐採工事から土木、港湾シールド、トンネル、ダム、建築工事まで様々にある。それらの工事に特徴的な交通誘導やそれに付属する警備業務がある。顕著なのは、建築現場では、施設警備業務に準じた出入管理によって関係者以外の出入を管理したり、巡回によって火元点検や安全衛生上の点検も行い、現場の安全衛生管理業務の一端を担う場合もある。こういったことを知るよしもなかったし、この頃、警備業協会の存在も知らなかったから、手っ取り早く知るには、先駆者に教えてもらうことしかない。そう思った数日後には、最も近かった日本SGSアラーム株式会社(現在の「セフト(株)」である)を訪問していた。

「今日は」と声を掛けると、「だれー」と言って、奥の部屋から出てきて、私を見るなり「なんの用事」と扇子で顔を仰ぎながら不審そうに言われた。その人が中川悟代表取締役社長であった。45年も前のことであるが、現在と全く変わっていない風体である。
名刺を出して挨拶すると、一番奥の社長室に招き入れてくれた。訪問の趣旨を言うと、第一声が「うちから行った3人はもう辞めたじゃー」といいつつ、そうなることは予測していたようで、その後の会話に3人のことは話題にな
らなかった。それほど長く話はなさなかったように記憶している。「えいよ、分からんことがあったらきんさい。」と少し照れくさそうに言ってくれたことが印象的であったし、すごく嬉しかった。その気持ちは今でも忘れたことはな
い。
2回目に訪問したときに対応してくれたのが藤原吉元常務取締役(後の「(株)ティスコを設立」)であった。第一印象は、六角形の角をなくした顔に大きなパーツが配置され、いかにもバイタリティーのある風貌である。しかも、バカデカイ声で話しながら時折示すユーモアのある表情は、人なつっこい優しさを感じる好感度の高い印象を受けた。私と同じ昭和23年生まれで、彼も中川悟社長と同じセコム出身者である。

藤原吉元常務も社長同様に親切な対応をしてくれた。記憶にあるのは、困っていた警備契約書と警備計画書のひな形をくれるなど、警備業務のイロハを教えてもらった。こういう先駆者からの教えが私を成長させ、ひいては、会社の成長を促した。中川悟社長とは、45年経った現在も付き合いが続いている。
会社は設立から10か月余りで、事務所が手狭となったため、広島市内中心に近い比治山本町に移転した。昭和の初期に建てられたと思われる鉄骨3階建ての倉庫を改造した事務所である。1階は駐車場と隊員の控室、2階が事務所と管制室、社長室である。そして、数か月後に3階を独身寮に改造した。寮というより寝床と言った方が分かりやすい。3畳程度の広さにベニヤ板で部屋を仕切り10室ぐらいあった。この寮が警備員募集に役立った。入居者は数か月余りで自立する礎となった。
工事のポストは下請け工事業者が整うにつれ毎日40ポストに定着した。そこに、副社長の夫A氏の紹介からゼネコンの交通誘導警備業務が加わり、日々拡大していった。
警備員の募集も間に合わず、警備員の連勤も時には16(いちろく)時間、24(にいよん)時間に至ることもあった。それでも足りず、大須町にある日雇い労働者の集まる場所に出向き、建設工事業者が集めた後の残った人を1人1日5,000円で雇い、軽トラックの後ろに乗せて移動しながら警備員服に着替えさせて現場に連れて行った。今では考えられないことではあるが、当時は罪悪感も違和感もなかった。法律の制約など考えることなく、なりふり構わず働く集団ができていた。
その頃、比治山町に事務所を移し、昭和54年末までに入社した、一警備員が後の警備会社HKを支える中心的役割を果たす幹部となった。
昭和54・55年の草創期に彼らがいなければ、今の警備会社HKはあり得ない。後に触れることとなるが、地域やテリトリーを切り開いて顧客を獲得する営業所のスタッフ、そして、新たな施設警備業務や大型物件の取得に対し、それをやり抜く「切り込み警備隊長」などの人材の存在が警備保障というサービス業の補完となって営業の推進を後押ししてくれた。
当時を振り返ると皆よくやった。2・3年で警備員は100人を超え、広島県内の警備会社では、すでに、中堅規模の警備会社にまで成長した。こういった経緯を経て、広島県警備業協会に入会した。
第3回連載は近日公開予定







