警備員教育の半世紀 | 警備業界が半世紀にわたり注いだ警備員教育を全国警備業協会元研修センター長野村晶三氏(株式会社ビジネス・サポート代表取締役)が語る
警備業界が半世紀にわたり注いだ警備員教育を全国警備業協会元研修センター長野村晶三氏(株式会社ビジネス・サポート代表取締役)が語る
野村氏は、昭和53年に警備業の業界に入り、昭和59年には、広島県警備業協会理事(教育委員会委員長)に就任して以来、平成4年には、全国警備業協会特別講習技術専門部会初代部員、平成8年には、特別講習考査部会部員、平成13年9月から全国警備業協会初代研修センター長を経て平成25年に全国警備業協会を退職するまで、一貫して警備員等の教育事業に携わった。
《はじめに》
警備業は安全産業であり、警備業務は様々な機器やシステムによってなされているものの最終的には人に委ねられます。よって「教育なくして警備業の将来はない」とう言葉は、警備業の誕生から半世紀語り継がれてきました。
実際に、昭和57年の警備業法の改正から警備員の教育制度は根本から変わり、さらに、昭和61年には、検定制度によって警備実務を教育としてどのように実践すべきなのかを実技科目によって明らかになりました。したがって、警備業者は、この検定制度によって、より実務的な教育が理論的に実施できるようになったことから、更なる警備業務の実施の適正化が図られたことは承知のとおりです。
前々から警備業界は、警備業法の精神をどのように受け止め、警備員教育の実施によって、警備業務の実施の適正を図って現在に至ったのか、さらに、特別講習が警備員教育にどのような影響を与えてきたのかなど、警備業の歴史を振り返ることによって、今後の警備業界の教育事業に役立つものと確信するところです。
そこで、警備業の歴史を追いながら警備業の発展を支えた警備員教育のルーツをたどり、将来の警備員教育の在り方を探ることができれば、それがひいては、警備員教育に携わる方々の教育の在り方に参考になれば幸いであります。
《警備業法の制定公布》
警備業法が制定された経緯は、警備業に携わっている者であれば、一定の知識を持っていることでしょう。しかし、なぜ警備業法に警備員の教育の義務化が規定されたのか、となると知らない人が多いのではないでしょうか。
そこで警備員教育のルーツを探り、業界の発展を支えた警備員教育の移り変わりと警備員教育の成果を知るために、警備員教育にかかわることに絞り込んで、警備業法の制定から改正に至った、警備員教育の歴史を整理することにします。
まず、記録に残っているデータでは、
警備業は、1962 年(昭和37年)7 月7日に日本警備保障株式会社(飯田亮社長)が誕生(設立)
そして、
昭和43年11月
・ 警備業者数79社(昭和40年から昭和43年までに47社設立された。)
・ 警備員数7,917人
・ 当時の警備業務は①常駐警備、②巡回警備、③警報警備、④保安警備、⑤特殊警備、⑥現金等の護送警備、その他として、調査業務、交通整理、駐車場管理、保険代理店業務となっており、この時代がいわゆる第一次黄金時代といわれる警備業者の誕生期でした。
また、警備員教育の実態は、正確には把握されていないものの「警備業関係論文集」によると、
《参考1》
しない | 2週間未満 | 2週間~1月 | 1月~2月 | 2月~3月 | 3月以上 |
16社 | 23社 | 6社 | 17社 | 3社 | 13社 |
※ 40年1月~43年8月の間47社設立(内32社50人未満) された。
※ 警備業務の多い順位は、1位常駐、2位巡回、3位船舶 4公営競技場
※ 警備員の41パーセントが元公務員(警察・消防・自衛隊)であった。
※ 教育事項は、刑法、道交法、防犯・防災業務、救急法及び護身術の実技であり、業務別及び実技中心の教育であった。
※ 警備員、警備業者の犯罪が多発し、法的規制の必要性が高まりつつあった。
このように、かなりの業者が相当数の警備員教育を実施しており、さらに、警備員の41パーセントが元公務員であったことが記載されています。にもかかわらず、警備員の非行や犯罪が多発している実態がありました。当時の調査では、元公務員以外の警備員による資質の低さや、犯罪前歴者が多いことなどが挙げられている。そのほか、在職1年未満者は、1社平均54パーセントとなっており、すでにこの時代から警備員の定着率が悪いのは、人事管理及び待遇面も悪く、雇用制度に問題があったようです。これらが定着率の悪い要因となっていました(昭和46年8月警察学論集「警備営業を巡る問題点」防犯少年課佐藤理事官)。
このような警備員の犯罪等のほか、次のような大きな社会的問題となる事件がきっかけとして昭和46年5月法的規制の必要性が国会で議論され、翌年法の制定・公布に至ったのは承知のとおりです。
《参考2》
・ 成田空港における反対派とガードマンのトラブル
・ チッソ(株)側のガードマンと株主のトラブル
・ 報知新聞社の労働争議へのガードマンの介入
・ 護身用具の携帯の禁止理由となる事案続発(傷害事件)
《参考》 1970 年前後の数年間において警備業者は、各地の労働争議へと介入していった。この事象は国会において取り上げられた。国会(第63 回国会:1970 年)で取り上げられた争議介入事例は、1970 年4月に報知新聞社の労働争議において約30 名の警備員が導入された事例であった。1970 年4月28 日の衆議院社会労働委員会(第63 回国会)において島本虎三議員(日本社会党)は、警備業者によって雇用された労働者たる警備員が、報知新聞社の経営側による指揮・命令のもとにおかれていたことを問題視した(「警備業法の制定経過と警備業における請負労働の変容」岩崎弘泰論文参照)。