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先人からのメッセージ~碑に刻まれた災禍の記憶~ ③ | コレラまん延防止を誤解され犠牲に 鴨川市「医師殉難の碑」

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先人からのメッセージ~碑に刻まれた災禍の記憶~ ③ |  コレラまん延防止を誤解され犠牲に 鴨川市「医師殉難の碑」

先人からのメッセージ~碑に刻まれた災禍の記憶~ ③

 

 「天災は忘れたころにやって来る」。物理学者・寺田寅彦(1878~1935)のことばと伝わります。備えをおこたってはいけないという戒めの名言として知らない人はいないでしょう。ただ、私たちはその重みをどこまで実感しているでしょう。近年の出来事を振り返ると「こんなこと想定外だった」と釈明されることが多すぎはしないでしょうか。実のところ人間は元々そう言いたがる生き物なのかもしれません。そんな本性を知っていたから、先人は消してはいけない記憶を碑に刻んで後世に伝えようとしたのではないでしょうか。先人のそんなメッセージの遺る碑が日本各地にあります。国土地理院は天災を後世に伝えるそうした碑の記号を新たに作り、2019(令和元)年から「自然災害伝承碑」として地理院地図に載せ始めました。私たちも、人々の安全と安心を守るためのセキュリティ・ニュースを発信する会社として、天災はもちろん、人が引き起こした禍の記憶を伝える碑も各地に訪ね、先人からのメッセージを紹介したいと思います。「想定外」が一つでも減ることを願いつつ。

 


 

コレラまん延防止を誤解され犠牲に 鴨川市「医師殉難の碑」

 

 コロナ禍にも通じる恐怖と根拠のない思い込み

 


 

「烈医沼野玄昌先生弔魂碑」。右奥に小さく住民による供養碑が見える
碑の概要
碑名 烈医沼野玄昌先生弔魂碑
災禍名 沼野玄昌医師殉難
災禍種別 暴徒による謀殺
建立年 1977(昭和52)年
所在地 千葉県鴨川市貝渚、汐留公園内
伝承内容 1877(明治10)年のコレラ大流行の際、危険をかえりみず患者の治療や防疫に尽くしていた医師・沼野玄昌は、「毒をまいている」「患者の生き胆を抜く」などの根も葉もない噂を信じた暴徒に襲われ死亡した。享年42歳。

「烈医沼野玄昌先生弔魂碑」

 いつ終息するか見通せない「コロナ禍」のなか、私たちは重苦しい日々を怯えながら送っている。その恐怖と、ウイルスの本性がまだ見極められていないことの裏返しとみられる偏見や差別が、医療従事者に向けられた。現時点でもなくなっていないそうした出来事は、人の心の暗部を見せつけているようで何ともやるせない。一筋の光明は高い有効性が報告されているワクチンがあることだが、そうした出口が見えなかった時代、得体の知れない病への恐怖は、より悲劇的な結末を招いていた。事件を語るのは、明治初期のコレラ禍のさなかで殺された医師を悼む千葉県鴨川市の「烈医沼野玄昌先生弔魂碑」である。

 コレラ菌が引き起こした大流行は、日本では1822(文政5)年を皮切りに1858(安政5)年、1862(文久2)年と続いた。さらに1877(明治10)年の大流行はその年に勃発した西南戦争の帰還兵が全国にもたらした。千葉県の鴨川町(当時)でも9月になって患者が発生した。碑によると、この地域では感染者が400人超となるに至って明治政府が官令を発し、小湊村の医師・沼野玄昌(げんしょう)に治療と防疫に当たらせた。碑文はこう続ける。「先生身を挺して危地にのぞみ施療防疫に従事するも 恐怖に戦(おのの)く大衆は消毒用薬液も反(かえ)って毒薬の如く妄想し ついに暴徒と化して先生を急襲し加茂川河畔において謀殺す 時に世寿四十二歳なり」

沼野玄昌の墓。小湊の妙蓮寺参道にある
沼野玄昌の墓。小湊の妙蓮寺参道にある

 国立感染症研究所のホームページによると、コレラは通常1日以内の潜伏期の後、下痢を主症状として発症する。重症の場合は下痢とともに嘔吐が始まり、量も1日に十~数十リットルに及ぶこともあるという。大量の排泄に伴い高度の脱水症状となって手足がけいれんし、目が落ち込んで頬がくぼむ「コレラ顔貌」を呈する。当時は、早ければ半日、遅い場合でも3日以内で死ぬことから「コロリ」と呼ばれて恐れられていた。コレラ菌がドイツのコッホによって発見されるのはその6年後ことで、まだ治療法は確立していなかった。

汐留公園。沼野玄昌の遺体は河口近くで見つかった
汐留公園。沼野玄昌の遺体は
河口近くで見つかった

 同じ房総半島の館山市立博物館が伝える「コレラ事件」によると、玄昌は佐倉順天堂で4年間西洋医学を学び、1867(慶応3)年には幕府医学所で種痘法の技術を身に着けて伝染病に取り組んでいた人物であった。その玄昌でも、病原体が分からない病に対しては、患者を隔離して井戸や便所、側溝などを石灰で消毒し、患者の家族の外出を禁じる以外、対処法がなかった。多くの医者が感染を恐れてしり込みする中でも玄昌は臆せず患者のもとに駆けつけ、患者の隔離や石灰消毒を積極的に行った。場合によっては患者を自ら背負って運ぶこともあったという。合理的思考の持ち主で豪放磊落。医学の進歩のためと、当時はまだタブー視されていた死体解剖にも熱心だった。悲運なことに、そうした面が裏目に出てしまった。住民たちの中に、「玄昌は井戸に毒を投げ入れ、患者の生き胆を抜く」というとんでもない噂が流れるようになった。そして、1877年11月21日、鴨川の警察から、地元の医者が診ようとしないとの訴えを受けて駆けつけた玄昌を、根も葉もない流言飛語を信じた十数人の住民が、槍や鎌、棒を手に襲った。

吉村昭「コロリ」。文春文庫「磔」所収
吉村昭「コロリ」。文春文庫「磔」所収

 事件は小説にもなっている。証言や史料、現場を踏まえた作風で知られ、「戦艦武蔵」「天狗争乱」などの作品がある作家・吉村昭(1927~2006)の短編「コロリ」(初出「別冊文芸春秋127号」=1974年、文春文庫「磔」所収)である。ここには事件までの経緯や当日の様子がリアルに描かれている。吉村昭は「文庫版のためのあとがき」の中でこう書いている。「『コロリ』は、中学時代の友人である三浦謹一郎君と同期会の席で、かれの祖父沼野玄昌の話をきいたことがきっかけで書いた。かれの家に所蔵されていた資料を借用し、現地調査もした。明治初期の大変動期に生きた玄昌の壮絶な、しかも悲哀にみちた死に心を動かされたのである」

 鴨川市郷土資料館によれば、地元では事件について語ることが憚られる空気があった。襲撃に関わった住民は裁判にかけられ、刑に服した。服役中に死亡したり、服役後に精神に異常をきたしたりした人もいたという。「負の記憶」であることを考えれば無理からぬことかもしれない。それでも1976(昭和51)年、当時の鴨川市長や天津小湊町長、地域の医療関係者らは、翌年が没後100年に当たるとして「百年忌記念行事実行委員会」を結成して殉難の地、同市貝渚の加茂川右岸を汐留公園に整備して碑を建てた。(碑は、加害者となった住民らが七回忌に際して置いた小さな供養碑が「凶刃に斃れた医術の大先覚終えんの地を記念するには余りにも粗末」だとして、新しい碑の建設趣意書を作り医師らに賛助金を呼びかけた)

 汐留公園は鴨川駅から南へ約1.5㎞歩いた所にある。駅前の観光案内所に立ち寄り、殉難碑に関するパンフレットはないか尋ねたが、碑のこと自体を知らなかった。公園に碑の案内板はなく、草刈り作業をしていた人も碑のことを知らなかった。やはり「負の記憶」のせいなのか。長さ100m余り、幅20mほどの公園内を探すと、碑は北西の端近くに立っていた。碑は全体に黒ずみ苔などが付着していて文字の読み取りには苦労する。しかし、上部の碑銘「烈医沼野玄昌先生弔魂」は読み取れた。一方、住民らによる供養碑は、市郷土資料館によればこの碑の台座の中に埋められているということであり、残念ながら、何が書かれているのか見ることはできない。

 日本のコロナ禍は、横浜港に停泊した豪華客船「ダイヤモンド・プリンセス号」での患者増加が連日報道されたことで深刻度が認識されるようになった。そこで患者に対応したのが日本災害医学会などの医療関係者だ。しかし、あろうことか、その現場で事態改善に尽力した人たちが、職場で「バイ菌」扱いされたり、子どもが保育園・幼稚園から登園自粛を求められたりする事態が起こった。職場管理者から活動をとがめられて謝罪を求められる事例まであった。同医学会は昨年2月、抗議声明を出し、偏見や先入観に基づく行為は許されないと訴えた。国も、新型コロナの対策特別措置法を改正して差別や偏見を防止する規定を設けたが、いまだ成果が上がっているようには思えない。玄昌先生が今の日本を見たらどう思うだろうか。

 

国土地理院地図に加筆

 


 

碑から受け取ったメッセージ:

「偽言(フェイク)かも? 引き込まれるな!引き込むな!!」

あなたは?
 

(阿部 治樹)

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