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株式会社五十嵐商会 五十嵐和代社長① 【私の警備道】~第1回 「女性の気付き」は危機管理~

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株式会社五十嵐商会 五十嵐和代社長① 【私の警備道】~第1回 「女性の気付き」は危機管理~

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第1回 「女性の気付き」は危機管理

 


 

「ていねいな仕事」モットーに60年

 

 警察庁のデータによれば、2019(令和1)年末の時点で警備員の総数は約57万人。そのうち女性は3万7千人未満で全体の6.5%しかいない。警備員が20人いたら女性がどうにか1人いるという圧倒的な「男の世界」だ。まして警備会社の経営者となればさらにその割合が下がるのは言わずもがな。そんな中で20年間、総合ビルメンテナンスの「株式会社五十嵐商会」を率いてきたのが五十嵐和代・代表取締役社長(58)だ。先代が1961(昭和36)年、東京都練馬区に浄化槽の清掃業者として創業して以来、「ていねいな仕事」をモットーに建物清掃、廃棄物処理、警備、資源リサイクル、そして施設の指定管理へと業務を広げ、人間で言えば還暦の節目を迎えた。「セキュリティ」が社会の様々な場面で求められる今の時代、五十嵐社長が唱える信念の一つは「『女性の気付き』は危機管理」である。


 

アパートの一間から始まった歴史

 

創業から間もないころの五十嵐社長
創業から間もないころの五十嵐社長

 千葉県の多古町から父・眞一さんが上京したのは1958(昭和33)年のこと。世は敗戦後のどさくさからようやく抜け出したものの、前回の東京オリンピックをバネに始まる高度経済成長期にはまだ少し間があった。風呂敷包みの荷物一つを手にしただけの眞一さんが就職したのは、東京・世田谷のバキュームカーの清掃会社だった。ここで3年間、一生懸命働いた。その働きぶりを見ていた勤め先の社長が「五十嵐、お前はバキュームの仕事はもう一人前にできるようになった。独立したいなら20代のうちだぞ」と背中を押してくれたという。東京都のそのころの下水道普及率は区部でも30%そこそこ。多摩地区ではまだ数パーセントだった。トイレや浄化槽から屎尿を回収するバキュームカーの出番はまだまだ多かった。

 眞一さんは独立を決意。世話になった会社との競合を避け、練馬区の石神井公園駅前のアパートに一間を借り、1961年6月、バキュームカー1台と電話だけの浄化槽清掃会社「五十嵐商会」を設立した。しかし、名前を知られていない出来立ての会社にすぐに仕事が来るはずもない。眞一さんは独立前に結婚していた同じ千葉県出身の妻・好子さんとともに、手書きのチラシを作って毎日石神井公園駅一帯の家々や商店に入れて歩いたという。五十嵐社長は「苦労が報われたのはそれから3週間後。ようやく1本の電話が入ったそうです。その電話から、すべてが始まったということですね」と話す。


 

「お客さんのために何かして来い」

 

先代の眞一さんが創業した五十嵐商会で活躍したバキュームカー
先代の眞一さんが創業した五十嵐商会で活躍したバキュームカー

 そこから仕事の依頼が1件、2件と増えていき軌道に乗り始めた。仕事のやり方は徹底した「お客様本位」だったという。後に五十嵐社長がお客さんから聞いたことばが「五十嵐さんが来ると庭まできれいになる」。眞一さんはバキュームの仕事を終えると槽のふたをきれいに洗うのはもちろん、庭に散らかっている落ち葉を掃き集めて持ち帰り、水まき用のホースも洗ってまとめてから帰った。肉屋さんをしていたお客さんからは「こちらの仕事のことにも気を使ってくれた」と感謝された。店先にお客さんが来ている日中だとバキューム作業はやはり具合がよくない。そこからの依頼には閉店後の作業で応じていた。また、共働き夫婦の家からの「日曜日に来てほしい」という注文も嫌がらずに引き受けた。「今でこそ顧客満足ということばは当たり前になっているけれど、そんなのが普通でない時代からやっていたんですね。そういえば父はよく『仕事に行ったらお客さんのために何かして来い』と口にしていました」と五十嵐社長は振り返った。


 

夫婦が会社発展の両輪

 

創業間もないころの事務所で絵顔を見せる母・好子さん
創業間もないころの事務所で絵顔を見せる母・好子さん

 創業の1年後に生まれた五十嵐社長。仕事が次第に忙しくなっていく様子を幼心にも覚えているそうだ。父親だけでなく、母・好子さんの働きも会社の発展には欠かせないものだった。バキューム仕事は今で言う3K(きつい、汚い、危険)。働き手がいなくて、眞一さんは故郷の千葉に中学を卒業した子を「リクルート」に行った。農家の人にも農閑期に手伝いに来てもらったそうだ。バキュームカーが3台、5台になり、従業員も十数人に増えた。好子さんは、アパートに住み込みで働く彼らの朝食と弁当を用意し、作業着の洗濯もする寮母さんのような仕事をこなした。

 もちろんそれだけではない。当時のバキューム料金は都によって浄化槽の容量に従い決められていた。通常は作業後に現場で現金払いされる。その帳簿管理も好子さんがしていた。ただ、お客さんの中には「今日は主人がいないので出せない」などと、その場でくれない人もいた。銀行振り込みなどまだそれほど普及していない時代。ただ待っていても払ってもらうことは期待できない。「そんなお客さんの集金役まで母がやっていました。母は12年前に亡くなりましたが、最後まで金庫番だけはやってもらったんですよ」と五十嵐社長。会社の発展は、夫婦という両輪がそろって回り続けたからこそ、だった。そんな両親の背中が、経営者・五十嵐和代を育てる。


 

「警備」につながる「連想ゲーム」

 

先代社長・眞一さんの写真を背にした五十嵐社長
先代社長・眞一さんの写真を背にした五十嵐社長

 会社の規模が大きくなり、仕事も順調ではあったが、世は高度経済成長期に入り下水道の普及率もどんどん高くなっていた。浄化槽の数は逆に減り、いずれは仕事先がなくなると感じていた眞一さんは昭和40年代に入るころには「清掃」の対象をビルに広げていた。五十嵐社長は言う。「浄化槽はなくなってもビルはなくならない、というのが父の考えでした。そのころ清掃の契約をしていたビルは2、3棟でしたが、そこで父は気付くんです。『ビルってこんなにもゴミが出るのか』って。それで廃棄物処理業に乗り出したんですね」。その後、ビルには警備員が必要だということにも思いが及ぶ。眞一さんは手堅い経営をする人だったそうだが、現場から見えてきたことから将来を見通すのは得意だった。「浄化槽の清掃」→「ビルの清掃」→「ビルの廃棄物」→「廃棄物処理」、「ビルの警備」。キーワードの連想ゲームのように先読みをした眞一さん。五十嵐社長が短大を卒業し、簿記の専門学校通いをしていた22歳のとき、こう宣言したという。「ウチは警備業を始めるぞ」。五十嵐社長は眞一さんから「資格を取ってくれ」と頼まれた。夢にも思っていなかった警備の世界との縁が始まった。 

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(阿部 治樹)


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