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優成サービス株式会社 八木正志会長(71)① 【私の警備道】~第1回 行動原理は「世のため人のため」~

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優成サービス株式会社 八木正志会長(71)① 【私の警備道】~第1回 行動原理は「世のため人のため」~

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第1回 行動原理は「世のため人のため」

 


 

東日本大震災被災地でトイレ支援

 

優成サービス株式会社 八木正志会長
八木正志会長

 2月13日の深夜、「あの悪夢の再現か?」と震えさせるほどの揺れが福島県と宮城県を中心に広い地域を襲った。不幸中の幸いと言うべきか津波は来なかったものの、土砂崩れや建物の損壊などの被害はそこかしこで明らかになってきた。古い傷跡が癒えきっていない中での復旧作業が始まったが、10年前、打ちのめされた被災者への救援活動の一隅で、深刻なトイレの悩みに手を差し伸べた警備会社があった。神奈川県海老名市の「優成サービス株式会社」である。

 同社は独自に開発したトイレカーを保有していて、東日本大震災の発生間もない時から1年7カ月の間被災地を巡って、人知れず辛い思いをしていた女性や障碍者に、ひと時ながらも大切なプライベート空間を提供し続けた。原点にあるのは、同社創業者の八木正志会長(71)が口ぐせのように言う「世のため人のため」という行動原理だった。


 

トロンボーンの縁で水産高校へ

 

 1949(昭和24)年4月23日、静岡県藤枝市のお茶とみかんを栽培する農家の三男として生まれた。「勉強大きらい」の少年だったが、父親に「なんとか高校は出てくれ」と泣きつかれて渋々進学することに。ところが、決心はしたものの自分の成績で行ける学校がない。「こりゃダメか」とあきらめかけていたところ、静岡県立焼津水産高校の先生から「ウチに来いよ」と声がかかった。中学校の吹奏楽部で熱中していたトロンボーンの縁だった。「部長もやって自分なりに結構、頑張ったんですよ。勉強はからっきしだったけど学校は休まずに皆勤賞。今の時代じゃありえないかもしれませんが、そんなところを高校のブラスバンドの先生が評価してくれたんでしょうね」と笑う。機関科(当時)に入学した。

 とはいえ、やはり生来(?)の勉強嫌い。教科書は学校に置きっぱなしで通学カバンには弁当箱だけ。成績は赤点ギリギリだった。それでもここでも3年間欠席なし。教科の担当教師からはしょっちゅう「学校いつやめるんだ」と言われたが、父親の願い通りなんとか卒業した。学校生活では孤立気味だったという。「周りは漁師の子ばかり。海に縁のなかった農家の息子とは話が合わない。今で言うイジメもありましたよ」と振り返る。


 

実習船でマグロ漁、根性鍛えられた3カ月

 

 そんな中で「人生の大きな節目の一つ」となったのが、390トンの実習船「富士丸」での航海体験だった。高校3年の夏から冬にかけての約3カ月間、太平洋でマグロなどを獲った。

 「漁師になるつもりはなかったので最初は乗船しないはずだった。ところが乗船予定者の1人がケガをして欠員が出て、急きょ乗ることになったんです。船の上での歩き方や仲間との連携、上の人への報告など一から鍛えられました。『落ちても助けに戻らないからな』と脅されるし、船酔いもひどくて地獄かと思ったなあ」

 それでも少しずつ慣れ、獲ったマグロに舌鼓を打つようになった。そしてハワイへ。まだまだ海外旅行が高嶺の花だったころ。ホームシックにもなったが、「ハワイに来ちゃったよ」という興奮が抑えられなかったという。陸に上がって今度は「ビフテキ」に感動した。楽しい思い出ではあったが、実習航海は「根性を鍛えられた大きな経験だった」。


 

伯父の勧めで神奈川県警の警察官に

 

刑事時代の八木会長。道場開きで同僚と鍋を囲む(右から2人目のサングラス姿)
刑事時代の八木会長。道場開きで同僚と
鍋を囲む(右から2人目のサングラス姿)

 高校は卒業したが、2~3年間は進路が定まらなかった。母方の家が宮大工だったこともあって木工所で働いたり土木工事現場で作業員をしたり、仕事を転々とした。そんな状態を見かねたのか、神奈川県警で警察署長も務めた母方の伯父が警察官になることを勧めてくれた。航海体験では「自分の身をどう守るか」が大事な問題だった。ここから考えを広げて「自分の暮らす社会をどう守るか」も避けて通れない課題だと気付いた。警察官になろうと考えを決めた。24歳だった。

 警察時代は都合11年間。刑事畑で窃盗犯を主に担当した。やりがいもあり、「いい人生を送っている」という充実感もあった。そのまま警察に骨を埋めてもいいと思っていたが、妻の親から体が弱ったから帰ってきてくれないかと頼まれた。婿に入ったような形で静岡の妻の実家で暮らし始めたが、次第に親族との折り合いが悪くなったという。


 

刑事をやめて妻の実家へ戻るも4年で再び神奈川に

 

退職のとき贈られた花束を手にして女子職員らに見送られる八木会長
退職のとき贈られた花束を手にして
女子職員らに見送られる八木会長

 「自分としては順調だった公務員の仕事を辞めて帰り、タクシー運転手をやって稼いで地域の消防団活動もやった。でも、何かが気に入られなかったんだろうね。とっても息苦しくなって、親子5人で家を出ることにした。39歳のとき、警察を辞めるまでいた座間署に近く土地勘もあった海老名市に住みだしました」

 
 
 
 

 この引っ越しが、警備業に足を踏み入れる第一歩となる。

(阿部 治樹)


 
第2回 警備員のキャリアスタート  好評掲載中 
横浜博覧会で15人の警備隊長に / 車いす常連客との交流6カ月 / やりがい感じた警備の仕事、会社を興して独立 / 目指した「一次請け」、1年後に実現  

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