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田邊龍美氏 KSPグループ会長 ⑤ 【私の警備道】~第5回 人々~

田邊龍美氏 KSPグループ会長 ⑤ 【私の警備道】~第5回 人々~

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第5回 人々


 

用心棒

国際警備

「東海大学を会場に借りなければ、この仕事を始めていなかった」
 田邊が警備業を手がけるきっかけは、東海大学の松前重義総長から附属校での臨時の警備の依頼を受けたことだった。東海大学の講堂を借りて抜刀術の大会を開いていたところ、それが警備の依頼先を必要としていた松前総長の目に留まった。
 学校の警備を手始めに、田邊は警備業に乗り出し、1960~70年代の学園紛争期には、神奈川県下を中心に、大学の警備にあたっている。「最初に松前さんに言われたときにはピンとこなかった」が、以来、警備を手がけて半世紀を超える。田邊は、「どこか目があるのだろう」と、松前の着眼を振り返る。ちなみに、武道家に警備を依頼しようと考えた松前重義自身も、戦前の高専柔道で鳴らした柔道家であった。
大学の警備を手がけながら、田邊はときにこんなことも考えたという。
「学生のときには、アジ演説に聞き入り、感心していたこともある。それが、反対側でブレーキを踏む仕事になった。これは志とは違った」
心の中では学生の言うことが正しく聞こえることもあったが、一方で、「東大の占拠(安田講堂事件。1968(昭和43)~69(44)年)なども、やりすぎだと思った」という。「正義だろうが、なんだろうが、人の道を踏み外している」
 企業の依頼で、争議の警備にもあたった。やがて、そうした警備にあたる警備会社は、“経営者の用心棒”と呼ばれるようになる。
「新聞の見出しで、大きく“経営者の用心棒”と書かれているのを見て、言い得て妙だなと感じた。そうか、俺たちは企業の用心棒なんだ。出入管理と呼んでも、これは用心棒で間違いない。でも、脱却しなきゃいけないとも思った。落ちぶれちゃいけないと」
 争議以外にも、さまざまな依頼があった。たとえば、1970年代、全国に問題が波及していたマルチ商法の会社から警備の依頼を受けたこともある。
「40人ぐらい必要というので出したが、会社の周りに、白装束に頭に三角の布をつけた被害者が太鼓を叩きながら現れた」
怒りに震えて集まったのは3000人という。この抗議活動は2日にわたって続き、会社の入口は見事に破壊されていた。
「戦後の成長期、用心棒らしき仕事の依頼は多発していた」と田邊は回想する。

人は見ている

神奈川県警OBの瀬戸昭二元警視長が、国際警備の顧問に就任したのは、昭和も末のころだった。1927(昭和2)年生まれの瀬戸は、1981(昭和56)年、総務部長を務めた県警を退職。セコムの顧問に就いた。
当時、神奈川県警備業協会で副会長を務めていた田邊は、会員企業の顧問として会合に出席する瀬戸と面識を得る機会があった。瀬戸は、セコムの顧問を5年ほどで退任すると、国際警備の顧問を引き受けることとなった。年齢は、1937(昭和12)生まれの田邊より一回り近く上だった。
「やっぱり総務部長になる人は、人格識見優れていると思った。顧問でいる6年の間に、いろいろな話を聞き、学んだ。普通ならうちには来ない人だった」
 たたき上げで捜査の現場を経験してきた瀬戸は、たとえばこんな話をした。
「三日三晩、木の陰に隠れて見張った。食べたのはアンパン3つくらいだった」
 誇ったり、自慢したりする風でもなく、瀬戸は続けた。
「若いころの我々は、歯を食いしばって仕事をした。人は見ていないようでいて、真面目にやれば最後は見る人は見ているものだ」
「若いころは乱暴者だったと自分では言っていたが、言葉の少ない謙虚な人だった」と田邊は振り返る。
 顧問は週2回程度の出社で、とくに決められた仕事はないが、瀬戸は自分が動くべきと感じたときにはすみやかに動いた。ときには相談なく動くこともあったが、当を得ていた。
 瀬戸が顧問に在任中、田邊が国税の調査を受けたことがあった。迷惑がかかると考えた田邊は、瀬戸にも委細を伝えた。「聞いたら辞めると思っていた」田邊に、瀬戸はこう答えた。
「それは税務のことなので警察には及ばない。その代わり、たとえちっぽけなことであっても、刑事事件は起こさないでください。起こすと5年間駄目ですよ」
 瀬戸が来てから、「周りの見る目が変わったように感じた」と田邊は語る。

取り直し

1972(昭和47)年に制定された警備業法は、その後いくたびかの改正を経て現在に至るが、警備員指導教育責任者、機械警備業務管理者を制度化した1982(昭和57)年の改正(翌年施行)、そして警備員指導教育責任者の資格を警備業務区分ごとに分割した2004(平成16)年の改正(翌年施行)は、大きな節目となった。
2004年の改正では、新たな資格を設定するにあたり、それまでの警備員指導教育責任者の資格は、すべて失効とされた。
「そんな馬鹿な、と思った。国家試験が取り消されるなんてあり得ないだろうと高をくくっていたら、弟(哲人社長・現副会長)も一からやりなおしになった」

哲人社長は、1978(昭和53)年、全国警備業協会連合会(現・全国警備業協会)から教育担当者の認定を受けた最初の5人の一人であり、1983(昭和58)年の警備員指導教育責任者の制度発足時から、その講習の講師を、また1986(昭和61)年に発足した警備業務検定においても最初の検定員を務めている。警備員の教育に関しては大ベテランだが、この改正に例外はなかった。
法改正を担当した、当時の吉田英法警察庁長官官房審議官(生活安全局担当)は、1991(平成3)年の暴力団対策法の制定に携わり、香川県警本部長を経て2001(平成13)年、生活安全局生活環境課長に就任。以来、同局にあって腕を振るっていた。
「当時は警察を警視になって退職すれば、1~4号まで全部の資格が与えられる仕組みだった。普通なら1科目1週間、4科目取るなら1カ月かけて講習を受けて資格を取る。それを警察官だったからと、ろくに講習もやらずに資格を与える。とんでもない話だと、彼が全部白紙に戻した。それからは、誰もが講習を受けて取得することになった」
つまりは公正な仕組みに改まったわけだ。全員取り直しは、その副産物である。抵抗もあるなか押し通した格好の吉田審議官の仕事ぶりは熱心さを極め、毎日夜中の2時、3時まで残って働くため、部下たちが帰れない有様だったという。終わると部下を連れて飲みに行き、それでいて8時にはちゃんと出勤していたとも伝わる。
吉田審議官は、改正警備業法が施行された翌2005(平成17)年、若手官僚時代を含め通算7年を過ごした生活安全局を離れ、福岡県警本部長に転じた。だが、当地で脳内出血で倒れ、在任わずか3カ月で後任にバトンを渡すことになった。闘病を経たのち、2008(平成20)年、関東管区警察局長(警察共済組合本部理事、警視監)に就任、翌年1月の退官までこれを務めた。
吉田元警視監が、国際警備の顧問に就任したのは退官から6年半ほどが過ぎた2015(平成27)年6月のことだ。
「顧問への就任を会報(社内報)に載せたら、どうやって来てもらったのかと、社外からも大変な反響だった」という。それからは月に1度は顧問として社に顔を出す吉田と、さまざまな会話を交わした。
「警察行政に関して、非常に全般にわたり知識が深い。なにしろ法律を作るくらいだから。少々乱暴だが、言うことがおもしろい。資格の取りなおしなどというのも、言うだけでなく実際にやってしまった人だから」
いっしょに鰻を食べに行ってもすべて平らげ、酒も注がれたものは全部飲んだ。
「あるとき、先生、警備業が生活安全の許可範疇に入っているのはおかしいじゃないですかと聞いたら、“俺もおかしいと思う”と答えが返ってきた。“今はオリンピックで手が付けられないだろうから、それが終わったらやってみよう”とも言っていた」
2016(平成28)年7月、吉田元警視監は急逝した。顧問としての在籍期間は1年ほど。亡くなる前の月にも出社し、大ぶりな鰻を残さず食べた。田邊より一回り以上若い吉田は、そのとき元気そうに見えた。
「彼がもう10年生きてくれたら、私のところも様変わりしたかな。傑出した男というのは、なかには結構いるんですね」と、田邊は振り返る。

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