田邊龍美氏 KSPグループ会長 ③ 【私の警備道】~第3回 官庁警備とM&A~
第3回 官庁警備とM&A
機械警備への対応
1970(昭和45)年、日本警備保障の機械警備への移行により、多くの常駐警備先を得ることになった国際警備だが、早くもその翌々年、1972(昭和47)年には、自らも機械警備に乗り出している。「やらないと時代遅れと思われ、やらざるを得なくなった」のだと田邊は語る。 機器もセンサーとアラームをつないだ簡単なもので、「最初はセンターマシンを使ってひとつづつつないでいった」という。機器を扱う企業は5社ほどあり、そのなかから使い勝手を勘案して選定し採用した。 その後、用いる機器は、画像、映像の送受信が可能になるなど長足の進歩を遂げ現在に至るが、その間もさまざまな課題に行き当たった。たとえば「画像通信の最初のころは乱れが発生し、一定の状態に保つのが難しかった」。また、普及が進むと「韓国やアメリカから安いカメラが入ってくるようになった」が、さっそく導入すると「半年ぐらい使うと、くもってきちんと映らなくなる」こともあった。これは使用するレンズの耐久性が低かったものらしい。機械警備に用いる機器の耐用年数は、現在でも「5~6年くらい」だという。 機器の設置にはそれなりにまとまった費用がかかることから、 契約をとるごとに大きな初期投資が必要とり、「中小の警備会社のなかには、機械警備は避けて通る会社もあった」という。初期段階での機械警備への対応の如何は、その後の社業の方向を左右する選択でもあった。
空港保安から官庁警備へ
1978(昭和53)年に開港した成田空港は、その後も厳戒態勢が敷かれた。反対派のデモや集会が毎週のように数千人単位で開かれた。国際警備の出番は続いていた。 「他人を見れば反対派に見えた。正義感がお互いに強く働いていた」と田邊は回想する。 空港の周囲には、7つの高い見張り塔があり、不審者があるとサーチライトで照らし出した。この状態は長く続いた。「各エアラインは事務所を一棟借りしていたが、自分で警備はできないから、それぞれ警備会社と契約する」状態だった。 国際警備は、こうした警備とともに開港後の空港保安の受注により業績を伸ばし、また安定させていくこととなる。以前より受注していた羽田空港の警備とともに社業の大きな柱となったこの空港警備は、次の大仕事を準備する下地にもなっていく。
1982(昭和57)年、警備業法が改正され、警備員の資格、検定制度が創設された。その際、警備員指導教育責任者、機械警備管理者制度の創設とともに、検定制度も盛り込まれた。交通誘導警備、核燃料物等運搬警備、貴重品運搬警備と並び、空港保安警備もまた検定制度の対象となった。 1994(平成6)年、国際警備は、最高裁判所、東京高等裁判所の警備の打診を受けた。これは、新たに警備の強化を図るに際し、空港保安業務を受注していた数社に対し打診を行ったもので、当然、検定を受けて事業を行っているものが対象であった。具体的には持ち込む荷物の内容を、X線検査によりモニターでチェックする能力が必要とされた。 条件的な問題などから辞退する企業もあり、国際警備が受注することとなった。オウム真理教による霞が関を標的とした地下鉄サリン事件が発生する前年のことである。以後、霞が関の他の官庁の警備にも同様の動きが広がり、国際警備は、その活躍の場をさらに広げることとなった。
20社に及ぶM&A
国際警備は、その発足の際にもグアム島の警備会社の買収を試みているように、企業買収には積極的であり、M&Aは、規模の拡大に大きな役割を果たしてきている。「時間を買う。その会社が歩んできた時間を買うという発想でいた」という。 買収の対象となる企業は、会社を閉めようと考えているところを始め、抱える事情はさまざまだ。経営状態に問題を抱えているところも少なくないが、「少しくらい業績の悪いところのある会社でも、悪いところを切り離せばよい」と、次々と買収を進めてきた。 最初は買った企業は吸収していた。法人を残す場合でも、社長以下役員はすべて交代する形で対応していた。しかし、後には役員は残すようにした。 「社長派、非社長派などに従業員が分かれている場合、役員を入れ替え、旧経営陣の権限をすべて剥奪すると、退職者が出るなどの影響も大きい」 退職者は、ときに全体の数割に及ぶこともあり、それでは時間を買ったことにはならない。そこで、「役員はみんな残し、フレンドリーな形を取る」ことに方針を切り替えたのだ。社長もそのまま残るケースもある。ただし、資本の面では創業者サイドに10%以上の株式が残らない形を堅持している。 買収した企業はすでに20社を超え、現在も交渉中の案件が存在している。現在、KSPグループは主要3社、関連業種を含む系列6社を加え、6000人規模に達しているが、M&Aは、グループの拡大に大きく寄与している。
横浜博覧会と本社ビル竣工
国際警備は、1989(平成元)年3月から11月まで、市制100周年、開港130周年を記念して地元横浜で開催された横浜博覧会の警備を受注、担当した。ときはバブル経済まっさかり、空前の好景気のさなかであり、会場となった、みなとみらい21地区には、半年間の開場期間に1300万人を超す来場者が詰めかける盛況ぶりだった。 この博覧会の警備を「大変にインパクトのある事業」と受け止めた田邊は、開催の5年ほど前から準備にとりかかった。競争も激しかったが、入札に参加するにあたり一番の課題となったのは、付されていた条件をいかにクリアするかだった。“20~40歳の警備員の確保”が課されていたのだ。警備員の平均年齢は概して高いことから、これは難しい条件だった。 「これで地元の企業はごそっと抜けた。1年前の段階で名簿を出せというのだから」 そのために採用に踏み切る必要があったが、国際警備はこれをクリアして横浜博覧会の警備業務を獲得した。 このころ、国際警備は横浜市中区山吹町に自社ビルの建設を進めていた。もともとは運河沿いに広がる倉庫街だったところだが、運河を埋め立てて地下鉄が通り、利便性が増していた。工事は、横浜博覧会の開催期間をはさんで進められ、翌1990(平成2)年に竣工、創立記念日である2月2日を期してオープンした。 「それまでもビルや不動産は持っていたが、いずれも買収したもの」だったから、自社ビルを建設して本社ビルとしたのは、これが初めてのことだった。 国際警備は全体で約3000人の規模になっていた。