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田邊龍美氏 KSPグループ会長 ② 【私の警備道】~第2回 国際警備株式会社~

私の警備道特集記事インタビュー
田邊龍美氏 KSPグループ会長 ② 【私の警備道】~第2回 国際警備株式会社~

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第2回 国際警備株式会社


 

警備業に専念する

田邊は、東海大学の附属高校の警備を手がけたことをきっかけに警備業に本格的に進出することになった。業務の中心は学校関係の警備であった。以前見に行った横浜国大の警備は、知人の会社と共に手がけるようになった。

まず必要となるのは人材である。最初30人出すと、次は150人を要求されるという塩梅。そこで地元の神奈川新聞に広告を出すと350人の応募者があった。「月給2万円ぐらいのころ、1,000~2,000円上積みした」という。

応募者の中には自衛隊の退職者も多く含まれていた。職場で既に基本的な訓練を積んでいる自衛隊出身者は、警備の場で有能だった。「なにか問題があって自衛隊を辞めた人も少なくなかったようだが、勇敢に向かっていく根性があった」という。

警備の依頼は横浜市立大学や神奈川大学などからも入るようになり、また大規模デモに際し、羽田空港の警備にも依頼を受けて人員を出すようになった。

国鉄横浜線の拡幅工事の警備の仕事も入った。こちらも100人規模での仕事である。住民の反対運動があり、厳重かつ慎重な警備を要する現場だった。このほか横浜駅周辺の再開発にともなう工事現場の警備にも参加している。

大人数の動員の際、困ったのは制服の手当てで、上野にあった警察や消防の制服制帽を扱う会社から、中古品を譲り受けてしのいだ。ただ、それをそのまま使うわけにはいかない。「女房や弟と400着くらいのボタンを付け替えた。帽子の方はモールを取るのが一苦労で、あきらめた」という。また、「消防の服は質が良いので喜ばれた」そうだ。

こうして警備の仕事をしばらく続けるうち、警備業を続けるには登録が必要だと知人から指摘を受け、神奈川県公安委員会に警備事業者としての登録を行った。県内で4番目の警備事業者であった。法人格は、数年前に三弟の哲人と設立した東進マリンサービス株式会社を充てた。こちらは本来は港湾の運送業の会社だったが、法人であればそれでよかった。

この間、7年弱勤めた新聞社は退職した。

 

常駐警備へ

1960年代の終わりごろから1970年代初頭にかけて、ボーリングが流行した。全国各地にボーリング場が建てられ、若い人はもちろん、年配者も詰めかけた。ただ、人が集まるところにはトラブルはつきもので、置き引きが出る、現金が集まるといったことから警備は必要だった。

田邊はここへ3~4カ月の契約で警備員を常駐させた。「初めのころは教育が行き届いていなくて、仮眠中に金庫を破られたこともあった」というが、こうした失敗を交えながらも契約の方は順調に伸びた。ボーリング場専門と名刺に刷り込んで営業をかけたのが功を奏し、盛時には県下で数十軒を数えたボーリング場の3分の2の警備を担当するに至っている。それまでは登録した人員を必要に応じて呼び出す形態の仕事が中心だったが、以後は常駐の仕事も増えていった。

こうして警備の仕事に本格的に取り組むに際し、田邊はヨーロッパに視察旅行に出ている。「ヨーロッパでは仕事の内容は50~60%ぐらいは常駐警備。ほかに現金輸送などだった」という。4カ月に及ぶ行程では、老舗の警備会社を見学し、警備会社の経営者から話を聞いて歩いた。

「ロンドンで4代目だという警備会社の経営者に会いに行ったときは、会うまでに監視カメラの設置された4つのドアを通らないと行きつけなかった。こういう警備会社があるのか、これは日本より200年ぐらい先の状態じゃないかと思った」

この視察を機に、海外での警備事業の展開を考えた田邊は、手始めにグアム島の警備会社の買収を試みている。「機械警備を導入した60人くらいの規模の会社で、何度も交渉に出向いた」という。結局この会社は日本の同業他社の買収するところとなり、実現はしなかったが、田邊はこの買収交渉に際し、社名を従来の東進マリンサービス株式会社から、国際警備株式会社に改めている。「名は体を表す」ことを求めての改称だったが、それは海外展開を目指すとともに、名実ともに警備会社としての歩みを進めることの再確認ともなった。1969(昭和44)年のことである。

そんな矢先の1970(昭和45)年、多くの巡回警備先、常駐警備先を抱える日本警備保障(現・セコム)が、機械警備への移行を開始した。夕方5時から8時までを機械警備に切り替えて無人化する方針で、巡回警備を廃止、常駐警備も縮小へ向けて動き出した。機械警備への移行は、画期的なことだったが依頼元の側には抵抗もあった。そのため、従来通りの警備を望む企業が、日本警備保障との契約を解消し、ほかの警備会社との契約に移行する例が多々生じることとなった。

国際警備も、このとき多くの新たな顧客を獲得している。長年契約の継続する顧客も多く、「伊勢原や秦野の工場の仕事は、このとき以来続いている」という。

1972(昭和47)年、警備員の欠格事由や事業者の届出制などを定めた警備業法が制定された。それを機に事業者団体の設立も進み、国際警備が本拠を構える神奈川県では、この年、神奈川県警備会社連絡協議会が成立。また、全国組織として社団法人全国警備業協会連合会が設立された。

 

爆弾事件とハイジャック

1974(昭和49)年8月30日、東京・丸の内の三菱重工本社前で時限爆弾が爆発。昼休みのビル街に割れた窓ガラスの破片が降り注いだ。死者8名、負傷者376名。続いて10月には三井物産、11月には帝人、12月には大成建設、鹿島建設、年が明けて2月には間組と、日本を代表する大企業に次々と爆弾が仕掛けられた。この一連の「連続企業爆破事件」は、5月に犯行グループが逮捕されるまで続いた。

田邊は「あのとき、いっぺんに常駐警備の依頼が増加した」と振り返る。警備の重要性に注目が集まる大きな契機はその後もあった。1977(昭和52)年の9月にバングラデシュの首都ダッカで発生した日航機ハイジャック事件である。このとき犯人側からの要求で、服役囚と公判のため拘留中の計6名が超法規的措置で釈放された。そのなかには、事件を引き起こした日本赤軍のメンバーのほか、拘留中の「連続企業爆破」の容疑者も含まれていた。このときも常駐警備の依頼が増加したという。

ハイジャック事件の発生は、空港の警備体制にも大きな影響を与えている。国際警備は、羽田空港の警備にあたったことを契機に、すでに空港保安の業務にも参入していた。また、羽田に続いて開港を目指して建設中の成田空港の警備にも当たっていた。成田空港をめぐっては空港反対派の激しい抵抗を受け、火炎瓶で2名の重傷者を出したこともある。このときは80名出ていた警備員の40名が退職している。

成田空港の開港予定は、当初の1972(昭和47)年10月から、1978(昭和53)年3月へと延びに延びた。しかもその開港予定も、侵入した反対派による管制塔破壊事件により延期され、ようやく5月に開港となった。ダッカ事件の翌年のことである。

以後、国際警備は成田空港の空港保安業務にも参入。のちには他の空港の保安業務をも手がけるなど、業務の大きな柱となっていくことになる。

 

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