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田邊龍美氏 KSPグループ会長 ① 【私の警備道】~我が国に警備業が歩みを始めて、はや60年近くが経つ。その草創期から現在に至るまでを、先達の足跡とともに振り返る~

田邊龍美氏 KSPグループ会長 ① 【私の警備道】~我が国に警備業が歩みを始めて、はや60年近くが経つ。その草創期から現在に至るまでを、先達の足跡とともに振り返る~

第1回 新聞記者からの転身


 

緒方竹虎の雄弁に接する

発祥の横浜を本拠に、全国規模で展開するKSPグループ。その創業は今から51年前の1969(昭和44)年、国際警備株式会社の発足に遡る。東京オリンピックの警備で、その存在を知られ、また、宇津井健主演のテレビドラマ「ザ・ガードマン」が好評を博すなど、一般にもその存在が認識されるようになったとは言え、未だ黎明期にあった警備業界。そこに携わる人々の前職は、さまざまであった。

KSPグループの創業者、田邊龍美は、もとは新聞記者だった。

田邊は、1937(昭和12)年、当時、国際連盟の委任統治領として日本の統治下にあった南洋群島のパラオ諸島コロール島で生まれた。

住まいは「ヘビが出るので高床式」だったという。いかにも南洋らしいのどかな暮らしぶりがうかがえるが、それも長くは続かない。ようやく物心つく1941(昭和16)年には太平洋戦争が始まる。やがて連合軍の反撃が始まると南洋庁が置かれたパラオも攻撃にさらされるようになった。艦砲射撃が始まると、棚のものをすべて降ろして、高床式の縁の下に隠れることが繰り返されるようになった。

1944(昭和19)年2月、6歳の田邊は、家族とともに内地に渡った。

田邊は父の故郷、静岡県由比町(のちに静岡市清水区に編入)で小中学校を修了し、県立清水東高校を卒業した田邊は、明治大学文学部に進学。そのころ、朝日新聞主筆から政界に転じ、吉田内閣で副総理を務めた緒方竹虎の演説を聞く機会を得ている。政治といえば弁論が人の心をとらえた時代。緒方の雄弁に魅了された田邊は、彼に見習い新聞記者を志すこととした。

目指すは緒方の古巣朝日新聞。入社試験の準備に励むかたわら、産経新聞に植字のアルバイトに出て、新聞づくりの空気に触れた。この間、病気がちだった父が鬼籍に入り、一家は横浜に移っていたが、横浜の地元紙は神奈川新聞一紙であることから、二紙目を自ら興すことも考えた。

満を持して受験した朝日新聞の入社試験では、順調に試験と面接を次々と通過。だが、役員面接まで進んだところで、思いがけない言葉を受けた。「君、片親だね」。

「はじめからわかっていることじゃないか」と納得がいかなかったが、選ぶのは向こうだ。田邊は朝日ではなく、バイト先だった産経新聞社に入社することになった。1960(昭和35)年のことである。

田邊は、この産経新聞で、警備業に参入するヒントを得ることになる。

 

二足の草鞋

新聞記者は人に会う仕事だ。記事はその集成である。あるとき目先の新しい事業を起ち上げた人物に取材して記事にまとめる企画が持ち上がった。幾人かの起業家が挙がるなかに、先ごろ日本警備保障(株)の名で「警備会社」を創業した飯田亮の名があった。田邊が記者生活に入って3年ほどのころだった。まだ「警備業」という業態は、社会的に認知されていなかった。

連絡を取ると、「忙しいから3分だけなら」と承諾を得ることができたが、訪ねた社屋は、ビルの上のプレハブだった。

「そこで飯田さんと戸田(寿一)さんに会い、3分どころか3時間話をうかがった。“安全と水はタダということはない”という。だからお金をもらって安全を守る。こんな安全な国で、これは大ぼら吹きではないかと思う反面、そういう時代が来るのかなとも思った」という。

そのころの田邊には、「警備業」はあくまでも取材の対象であった。

一方、「普通の人よりは発展的だった」という田邊は、記者生活に慣れると、並行して副業を始めた。今で言う編集プロダクションで、出版社に企画を売り込み、記事の制作にあたる仕事である。「当時の七大新興宗教を調べて、半年くらいかけて掲載したこともある」という。この事務所は、30~40人が出入りする規模になった。

これは記者生活の延長上にあるものだが、手がけた副業は、親族と共同で経営するものを含め、他の業種にも広がっていった。田邊は4人兄弟の長男であり、兄弟それぞれが時に協力しながら事業に乗り出していた。

 

最初の警備

田邊が手がけていた事業のひとつに、飲食店の経営があった。関内駅の近くのビルの1階にもクラブを出していたが、あるとき同じビルの3階に入居する知人の会社から昼食の注文が入った。毎日出してほしいという。畑違いだが、従業員がやってもいいというので出すことにした。横浜パトロールという警備会社であった。

「その支払いが3カ月ほど滞った。話をすると、“金も忙しいけど、人手も忙しい。手伝ってくれないか”と逆に頼まれた」

この会社が手がけていたのは、大学の警備だった。当時、ベトナム反戦運動も相まって全国の大学では紛争が持ち上がっていた。警備に出ていた横浜国立大学は、左翼党派の有力な拠点校だった。田邊は、警備会社の仕事場に出向いてみることにした。

警備の現場は、数百名かと思しきヘルメットにゲバ棒の学生を相手に緊迫していた。すでに150人が警備についていたが、とてもそれで対応できるものではなかった。

「大学側から“もう150人くらい出してくれ”と、怒鳴られていた」

田邊は、これは仕事になると思った。ただ「これでは危ない。ケガをするな」とも思った。田邊は武道に心得があったが、この仕事はあまりに物騒であった。

田邊は抜刀術の戸山流の教えを受けていた。戸山流は、かつて陸軍戸山学校で行われていた実践的な軍刀の操法を、戦後その関係者の手で復興したもので、田邊は、その立ち上げと組織化にも深く関わっていた。

そのころ、戸山流抜刀術の大会を開くことになった。来会者は3,000人。会場は渋谷区の東海大学本部校舎の講堂を借りたが、それが警備の道に踏み込む直接のきっかけとなった。その大会の最中、会場の主である東海大学の松前重義総長が会場に突然現れ、こう言ったのである。

「ここの責任者、終わったら私の部屋に来てくれ」

田邊は何事かと出向いたところ、なんと警備の依頼だった。翌年2月に附属高校の警備に200人出してほしいというのだ。当時、学園紛争は大学に止まらず、高校にも波及していた。入学試験粉砕、卒業試験粉砕などと生徒が行動を起こすことがあり、それを抑える必要があった。また、入学する生徒や保護者が学校を見学に来る時期でもあり、混乱は見せられないということもあった。

「私はそのころ、いろいろやってはいたが、警備会社はやっていない。だからそもそも受けるとは言えない。しかも、横浜国立大学で大学警備の現場に触れていたから、気が進まなかった」

だが、総長の指示だったせいか、その後も東海大学からの要請は続き、年末になると総務部長が勤務先の新聞社までやってきた。「勤務先に来てもらっては困る」こともあり、田邊は警備を受けることにした。

「大学の体育会を中心に人を集めたが、200人は集まらず、やっとそろえたのは150人」

こうして1967(昭和42)年2月2日からの3日間、田邊は高校の警備にあたることになった。隊員の制服は借り物だった。

 

次回 第2回「国際警備株式会社」はこちらから

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