株式会社セキュリティ 代表取締役:上園俊樹② 【私の警備道】~第2回 株式会社セキュリティ設立~
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近大マグロの養殖に明け暮れた大学時代、人事部に配属され人材採用の経験を積んだサラリーマン時代、覚悟を決めて警備業の世界に足を踏み入れ34年。魅力溢れる警備業のあり方を目指して警備道を邁進し続ける!
第2回 株式会社セキュリティ設立
1988年(昭和63年)、埼玉の地に「株式会社セキュリティさいたま」を開業。安全と信用をスローガンに、独自の採用システムと専任教官による教育システムで人材を育成し、新時代に向けたセキュリティを目指し躍進。その機動力の源となっているのが、現社名「株式会社セキュリティ」代表取締役の上園俊樹である。
独立・起業で一国一城の主人に!
1987年(昭和62年)、上園は意を決して共同経営していた警備会社を退社。勤務期間は2年4か月だった。そして、すぐさま新たな警備会社設立の準備に入り、翌年、1988年(昭和63年)に「株式会社セキュリティさいたま」を設立。代表取締役に就任する。スタッフは5人(うち経理と広報の女性2人)のこぢんまりとした、アットホームな警備会社からのスタートだった。
会社を設立するのは簡単だが、仕事を受注するのが難しいといわれる警備業。上園はスタッフと手分けして、地元の工務店、建設、土木会社をはじめ、工事現場に飛び込みで営業活動を行い、仕事を受注した。人員が足りないときには、自ら現場にも出ながらの社長業が続いた。
「独立したからには失敗は許されない。なんとしてでも会社を運営していく。そんな強い気持ちでした。最初のうちは仕事を受注できていて、警備員も20〜30人くらい雇えるようになっていました。それでも自分も現場に出ないと食べていけないような状況でした。当初の警備業務のメインは交通誘導でしたが、警察に貴重品運搬警備の届けを出して、夜中にパチンコ屋を回って現金輸送警備もしました」
そんな苦労が実り、会社を設立した翌年の1989年(平成元年)には川越営業所を設置、資本金増資、本社を所沢に移転。1993年(平成5年)には、現在の所沢市喜多町に移転、1994年(平成6年)、社名を株式会社セキュリティに変更。
上園が立ち上げた会社は順調に業績を伸ばしていたが、以前勤めていたスーパーマーケットはというと、その後に経営状態が悪化し社員の出向や大量解雇の話が持ち上がる。元同僚から、上園の警備会社にも出向を受け入れてもらえないか、というオファーもあった。上園はそのオファーを受け入れた。
ふりかかる警備業の難題
仕事量が増える一方で、思うように警備員を確保できないという問題もあった。株式会社関電工が行う大掛かりな電気工事の警備の仕事を任されることになり、20〜30人の警備員が必要になった。しかし、埼玉近郊でそれほどのまとまった人数を一度に集めることは不可能だった。
そこで、上園は思いついた。地方から労働者をかき集められないだろうか? 上園がサラリーマン時代、人事担当で人材確保のため地方の高校を回りながら、職業安定所(ハローワーク)にも立ち寄って人員募集依頼をしていたことを思い出す。さっそく青森の職業安定所に出向いて警備員募集を依頼すると、問題はあっさり解消された。上園はバスをチャーターして、青森から連れてきたスタッフを用意しておいた寮に住まわせ働いてもらうことにした。そして工事は無事終了した。
それが上園の会社の信用を高め、飛躍的に業績を伸ばすことになる。特に交通誘導業務が忙しくなる冬場に、季節労働者を採用することで人手不足を解消することができた。当時、上園が思いつく限りでは、埼玉近郊の警備会社で地方の職業安定所で募集した警備員を採用している会社はなかったという。地元に家族をおいて働きに来てもらっている人をフォローする目的も兼ね、青森県弘前市に採用センターも開設している。
仕事が増え、人手不足問題が解消されたものの、また大きな問題が上園にのしかかる。資金繰りである。
スタッフを抱えればそれだけ給料の支払いは多くなる。「警備業の支出の8割は人件費」といわれるほど、警備業の支出における人件費が占める割合は大きい。大きな仕事をこなしても、その支払いが行われるのは数か月後。しかし、スタッフの給料は毎月支払わなければいけない。そのため、資金繰りに苦しむ警備会社も少なくない。上園にもそんな苦しい時期があったという。
「銀行からお金を借りるのにまだ信用が足りない頃は、資金繰りに随分苦労しました。会社設立当時からお世話になっているお得意様のところに、葬式の日にお金を借りに行ったこともあるくらいです」
助けられることもあれば、助けることもあった。上園がよく知る警備会社が倒産。社長が夜逃げして社員が路頭に迷っているという話を聞きつける。人手が足りないときには、人員をまわしてもらったりしていた経緯もあり、その警備会社に勤める社員を引き取るとともに、倒産した会社が多角経営していたコンピューター教室や家具屋の店舗を、警備業グッズを販売する店にして経営したこともあった。
東日本大震災復興支援活動
会社は軌道にのり順風満帆。埼玉県内の警備業界で、上園の信用は高まっていった。2001年(平成13年)、所沢市警備業関係防犯連絡協議会が設立され、初代会長に就任。2010年(平成23年)、埼玉県警備業協会の会長に就任。それから1年後、2011年(平成24年)に未曾有の震災が起きる。死者15,899名、行方不明者2,529名(2020年3月1日時点。警察庁)もの被害者を出した、東日本大震災である。
その日、上園が地震の揺れを感じたのは、会社最寄りの駅構内。すぐに会社に戻って情報を収集すると、高校を卒業するまで暮らしていた仙台も罹災していることがわかった。
上園は埼玉県警備業協会から総勢15名の災害支援隊を派遣することを決定。上園の会社からも6名の従業員が参加。4月17日から4月26日まで、宮城県七ヶ浜町で、警察と協議しながら巡回パトロールを行った。
さらに、上園は会社独自でも支援活動を行うため、派遣する従業員を住まわせる物件探しのため、夫人とともに仙台を訪れた。そこで、全国からやって来た大勢の支援者を見て上園は、「我々も復興のために力を尽くさなければいけない」という気持ちがより強くなったという。
派遣する従業員を住まわせる物件については、賃貸物件が不足していたため、夫人の意見で地元に寮を購入。そこで寝泊まりしながら復興活動の支援を行うことにした。
さらに上園は考えた。「我々の復興活動は被災地の救済だけでなく、地元で雇用の機会を創出することも必要なのではないか」。そこで上園は、長期にわたる復興活動を見据え、5月16日には仙台駅近くにあるハローワークの向かいに仙台営業所を開設。職を失った被災者の求職支援にものりだした。
交通手段が限られている被災地での移動の労力を軽減するため、7月に入ると6人分の寝台があるキャンピングカーを購入し従業員を派遣。工事現場に警備員をスムーズに配置できるとあって、仮設住宅の建築現場で感謝されたという。
仮設住宅の建設が落ち着いた後も、土地のかさ上げ工事や道路工事などに警備員を派遣し続ける。ゼネコンとの取引が多く信頼関係が築かれていたこと。専門的な資格をもつ警備員の養成に力を入れてきたこと。それらの蓄積があったからこそ、被災地の警備業務依頼にスムーズ応えられたという。
「高校時代まで暮らし、私を育んでくれた愛着のある土地ですから、警備の仕事を通じて復興に貢献したいという一心でした」と、上園。
宮城県警備業協会からは、埼玉県警備業協会と上園の会社に、支援の感謝の気持ちとして宮城県の雄勝町産の硯石でつくられた石板が送られた。その石板には「絆」の文字が刻まれている。
2014年(平成26年)には、気仙沼市に復興事業所を設置。支援活動は現在も続いている。