先人からのメッセージ~碑に刻まれた災禍の記憶~ ⑰ | 足尾銅山の鉱毒被害に苦しんだ農民、東京へデモ
先人からのメッセージ~碑に刻まれた災禍の記憶~ ⑰
「天災は忘れたころにやって来る」。物理学者・寺田寅彦(1878~1935)のことばと伝わります。備えをおこたってはいけないという戒めの名言として知らない人はいないでしょう。ただ、私たちはその重みをどこまで実感しているでしょう。近年の出来事を振り返ると「こんなこと想定外だった」と釈明されることが多すぎはしないでしょうか。実のところ人間は元々そう言いたがる生き物なのかもしれません。そんな本性を知っていたから、先人は消してはいけない記憶を碑に刻んで後世に伝えようとしたのではないでしょうか。先人のそんなメッセージの遺る碑が日本各地にあります。国土地理院は天災を後世に伝えるそうした碑の記号を新たに作り、2019(令和元)年から「自然災害伝承碑」として地理院地図に載せ始めました。私たちも、人々の安全と安心を守るためのセキュリティ・ニュースを発信する会社として、天災はもちろん、人が引き起こした禍の記憶を伝える碑も各地に訪ね、先人からのメッセージを紹介したいと思います。「想定外」が一つでも減ることを願いつつ。
足尾銅山の鉱毒被害に苦しんだ農民、東京へデモ
阻止する警察と衝突した「川俣事件」を語る碑
碑の概要 | |
碑名 | 川俣事件記念碑 |
災禍名 | 足尾銅山鉱毒事件 |
災禍種別 | 公害 |
建立年 | 2000(平成12)年 |
所在地 | 群馬県明和町川俣 |
伝承内容 | 1900(明治33)年2月13日、足尾銅山の鉱業に関わる諸問題を解決するために被害民たちは決死の覚悟で第4回の東京押出しを決行した。渡良瀬村(現館林市)の雲龍寺に集結した2500余名の被害民は朝9時ごろ同寺を出発し、正午ごろに佐貫村(現明和町)に到着し利根川を渡ろうとしたが、川の手前の川俣で待ちうけていた300余名の警官隊に阻まれ、多くの犠牲者(負傷者)を出して四散した。佐貫村の村長ら有志は負傷者の手当をし、炊き出しも行って被害民を助けた |
水俣病と並んで日本の公害の原点とされるのが、明治時代、現在の栃木県と群馬県を流れる渡良瀬川周辺で起こった足尾銅山鉱毒事件だ。一帯では、銅山から出る排煙が山の木々を枯らし、排水が川を汚染して生き物や農作物に大きな被害をもたらしていた。被害に苦しむ農民は政府に操業停止や補償などの対策を求めたが反応はにぶかった。業を煮やした農民たちは栃木県選出の衆議院議員・田中正造と連携して数次にわたる東京へのデモを決行。当時「押出し」と呼ばれたそれらのデモのうち、1900(明治33)年の第四次押出しで、農民たちは群馬県邑楽郡佐貫村川俣(現明和町)で阻止しようとする警察と激しく衝突した。農民多数が負傷し100人余りが逮捕された。「川俣事件」である。現地には経緯を詳しく語る横長の大きな碑が建つ。