先人からのメッセージ

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先人からのメッセージ~碑に刻まれた災禍の記憶~ ⑥ | 飢饉しのいだ「備え」と「分かち合い」の碑

野良坊菜の碑ところ芋の碑

先人からのメッセージ~碑に刻まれた災禍の記憶~ ⑤

 

 「天災は忘れたころにやって来る」。物理学者・寺田寅彦(1878~1935)のことばと伝わります。備えをおこたってはいけないという戒めの名言として知らない人はいないでしょう。ただ、私たちはその重みをどこまで実感しているでしょう。近年の出来事を振り返ると「こんなこと想定外だった」と釈明されることが多すぎはしないでしょうか。実のところ人間は元々そう言いたがる生き物なのかもしれません。そんな本性を知っていたから、先人は消してはいけない記憶を碑に刻んで後世に伝えようとしたのではないでしょうか。先人のそんなメッセージの遺る碑が日本各地にあります。国土地理院は天災を後世に伝えるそうした碑の記号を新たに作り、2019(令和元)年から「自然災害伝承碑」として地理院地図に載せ始めました。私たちも、人々の安全と安心を守るためのセキュリティ・ニュースを発信する会社として、天災はもちろん、人が引き起こした禍の記憶を伝える碑も各地に訪ね、先人からのメッセージを紹介したいと思います。「想定外」が一つでも減ることを願いつつ。

 
 

飢饉しのいだ「備え」と「分かち合い」の碑

 

 「フードロス」と「コロナ禍」の現代日本に伝えるもの

 
 
野良坊菜の碑ところ芋の碑
碑の概要
碑名 野良坊菜の碑、ところ芋の碑
災禍名 天明の飢饉、天保の飢饉
災禍種別 天候不順、冷害、火山の噴火による飢饉
建立年 1977(昭和52)年、1836(天保7)年
所在地 東京都あきる野市・子生神社、同・光厳寺
伝承内容 明和4(1767)年、幕府の代官伊奈備前守が近隣の十二ケ村に「のらぼう菜」の種子を配布し栽培法を授けて栽培させた。この葉が天明・天保の大凶作で多くの住民が飢餓にさらされた際、命を救うのに役立った(野良坊菜の碑)。天保七(1836)年の大飢饉に際し、村人たちは戸倉山に自生するところ芋を他村から採りに来るのを禁ずるよう村長に訴えた。しかし、村長は「ところ芋は天からの授かりもの」と村人を諭し他村の人たちにも採らせた(ところ芋の碑)

 「飢饉」……。娘の身売りや餓死、果ては人肉食いまで思い浮かぶおぞましい言葉だが、今の日本には無縁だと思っている人が多いのではないだろうか。確かに、かつてのような惨状は現代日本では起きないだろう(と思いたい)が、敗戦直後の食糧難や昭和初期の東北飢饉は、そう遠い昔の話ではない。しかも、日本には「貧しさによる飢え」もあり続けている。一方で、食品ロスが年間600万トンにも達する日本。東京都あきる野市に残る「野良坊菜(のらぼうな)の碑」と「ところ芋の碑」は、飽食の中に飢えが存在する私たちの時代への戒めそのものだと感じる。

日本の飢饉は主なものだけでも、
●養和の飢饉、1181年=干魃による農産物の収穫量激減
●寛喜の飢饉、1231年=長雨による冷夏、台風の連続襲来
●長禄・寛正の飢饉、1459~1461年=水害、旱魃、虫害
●寛永の大飢饉、江戸時代初期(1630年~)=蝦夷駒ケ岳の噴火による降灰、異常気象
●享保の大飢饉、江戸時代中期(132年~)=冷夏と虫害
●天明の大飢饉、1782~1788年=近世史上最大の飢饉。浅間山の噴火による降灰、悪天候
●天保の大飢饉、江戸時代後期(1832年~)=洪水や冷害
●昭和東北大飢饉、1930~1934年=やませ(冷たい北東風)の発生による冷害
などがある。
 その都度おびただしい数の人が餓死し、日本各地にはいくつもの慰霊碑が残されている。しかし、上記二つの碑はそうした慰霊のためのものではなく、「備え」と「分かち合い」が、人々を飢えから救ったことを今に伝えている。

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