先人からのメッセージ

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先人からのメッセージ~碑に刻まれた災禍の記憶~ ④ | ホテルニュージャパン火災 増上寺「聖観世音菩薩」像

先人からのメッセージ~碑に刻まれた災禍の記憶~ ④ |  ホテルニュージャパン火災 増上寺「聖観世音菩薩」像

先人からのメッセージ~碑に刻まれた災禍の記憶~ ③

 

 「天災は忘れたころにやって来る」。物理学者・寺田寅彦(1878~1935)のことばと伝わります。備えをおこたってはいけないという戒めの名言として知らない人はいないでしょう。ただ、私たちはその重みをどこまで実感しているでしょう。近年の出来事を振り返ると「こんなこと想定外だった」と釈明されることが多すぎはしないでしょうか。実のところ人間は元々そう言いたがる生き物なのかもしれません。そんな本性を知っていたから、先人は消してはいけない記憶を碑に刻んで後世に伝えようとしたのではないでしょうか。先人のそんなメッセージの遺る碑が日本各地にあります。国土地理院は天災を後世に伝えるそうした碑の記号を新たに作り、2019(令和元)年から「自然災害伝承碑」として地理院地図に載せ始めました。私たちも、人々の安全と安心を守るためのセキュリティ・ニュースを発信する会社として、天災はもちろん、人が引き起こした禍の記憶を伝える碑も各地に訪ね、先人からのメッセージを紹介したいと思います。「想定外」が一つでも減ることを願いつつ。

 


 

ホテルニュージャパン火災 増上寺「聖観世音菩薩」像

 

 33人死亡、厳しく問われた経営者の責任 

 


 

聖観世音菩薩像
碑の概要
碑名 聖観世音菩薩
災禍名 ホテルニュージャパン火災(1982年)
災禍種別 火災
建立年 1987年
所在地 東京都港区芝公園4-7-35(大本山増上寺境内)
伝承内容 ホテルニュージャパン火災で亡くなった人のみたまの安からんことを祈る

聖観世音菩薩像

 どこにも逃げ場がなくなった時、人の目には地面が近いと映ってしまうのだろうか。それとも絶望のせいなのか。炎と煙に追い詰められた宿泊客が9階あるいは10階から飛び降りる衝撃的な映像が目に焼き付いている。1982(昭和57)年に東京であったホテルニュージャパンの火災。亡くなった人は33人、そのうち飛び降りて命を落とした人は13人にも上る。首都のど真ん中で発生した大惨事。ずさんな防火体制が明らかになり、経営者は厳しく責任を問われて実刑に服した。その悲惨な火災で亡くなった人たちの慰霊のために建てられたのが、大本山増上寺(東京都港区芝公園4丁目)境内にある「聖観世音菩薩」の像である。

一般財団法人消防防災科学センターがウェブ上で運営する「消防防災博物館」の火災事例資料によると、火災は1982年2月8日午前3時20分過ぎに発生した。火元は9階の客室。宿泊した英国人(死亡)の寝たばこが原因と見られている。その後の経緯は以下の通りだ。――フロント係が午前3時半ごろ、仮眠するために9階へ。エレベーターを降りた時、客室のドアのすき間から煙が噴き出しているのを発見。フロント係は1階に戻って2人の同僚に火事が起きたことを知らせ、電話で消防に通報した。火事を知らされたルームサービス係が9階に行き、エレベーターホールにあった消火器で消そうとしたが消しきれなかった。フロント係は9階の屋内消火設備の扉を開いて起動ボタンを押しホースを伸ばしたものの設備は作動しなかった――

火災を伝える写真(「東京消防庁事務年鑑昭和57年」から
火災を伝える写真
「東京消防庁事務年鑑昭和57年」から

 出火当時、宿泊客は10階に27人、9階に76人、8階以下には249人いた。フロント係は出火場所付近の廊下にいた数人の客をエレベーターで避難させ、続いて到着した警備員がサービスステーション前にいた数人の客を避難階段に誘導した。10階では別の警備員が廊下にいた数人の客を階段で避難させ、フロント係も2人を階段に誘導した。しかし、初期消火に失敗した後、組織だった消火活動は行われず、火はまたたく間に広がっていったという。

 ホテルは1960(昭和35)年に建てられ、増改築を経て地下2階・地上10階建ての420室・収容人員2946人の規模で運営されていた。焼けたのは7~10階と塔屋部分の4186㎡。特に9、10階の焼損が大きかった。同資料は火の回りが急激だった理由として以下の10点を挙げている。

①スプリンクラー設置の不備
②防火区画が不完全
③客室の出入口が木製
④客室相互の間仕切壁の天井裏部分にすき間が存在
⑤客室相互の間仕切壁の一部(窓際部分32㎝×140㎝)が木製
⑥客室内浴室横のパイプ・ダクトシャフトへ貫通する換気ダクト・配管の埋め戻しが不完全
⑦パイプ・ダクトシャフトの防火区画の一部埋め戻しが不完全
⑧エレベーター枠上部区画壁の施工が不完全
⑨内装材(居室、廊下の壁仕上げおよび下地)に可燃材を多用
⑩面積区画(1500㎡)に設けられている防火戸の温度ヒューズは溶解しているにもかかわらず、防火戸は開放状態

ホテルニュージャパンの跡地の今の様子
ホテルニュージャパンの跡地の今の様子

 消防からはポンプ車48台、はしご車12台、救急車22台、ヘリコプター2機などが出動し消防士・消防団員計649人が消火・救助活動に当たった。彼らの懸命の働きで63人が命を救われた。しかし、余りにも延焼速度が速く33人が亡くなり、34人が負傷した。同資料は問題点として設備の不備・不適切を挙げ、死者のうち台湾人が妊婦を含め12人、韓国人8人、英・米人各1人であることを踏まえて外国人への適正な情報伝達方法の必要性を提起。防火管理については「管理権原者である社長は、防火意識に薄く、従業員等に対する防災教育、避難訓練等も実施しておらず、火災が発生した際の通報連絡、初期消火等の体制等も確立されていなかった」と厳しく指摘した。ここで「防火意識が薄い」とされたのが当時の横井英樹・代表取締役社長である。

 横井社長は業務上過失致死傷罪に問われた。裁判記録などによれば、横井社長は1979(昭和54)年に就任して以来、消防当局からの度重なるスプリンクラーの設置指導を無視し、当局や専門業者による防火査察・設備定期点検も拒否し続けた。従業員の削減も続け、火災当時は就任当時から比べて半分以下の180人足らずに。消防訓練も実施しなかったという。東京地裁は1987(昭和62)年5月、横井社長に対し「営利の追求に腐心するあまり防火設備などの支出を極端に抑制して従業員の大幅な削減を行うなどした結果大惨事を招いた。多数の人命をあずかるホテル経営者として不可欠な宿泊客の生命と安全を確保するという最も重要で基本的な心構えに欠けていた」と指弾して、禁錮3年の実刑を言い渡した。裁判は最高裁まで争われたが、最高裁は1993
(平成5)年11月、横井社長の上告を棄却。原判決が確定した。

像の台座部分
像の台座部分
像の裏側に記されている日付と名前
像の裏側に記されている
日付と名前

 慰霊の像を訪ねた。聖観世音菩薩像は、芝大門から三解脱門を抜けるとすぐ左側に立っていた。高さは5、6mほどか。厳かな表情をした立派な像だ。台座には「ホテルニュージャパン罹災者のみたまとこしえに安からんことをお祈りして」と刻まれている。像がここに設置されたのは遺体の仮安置所になり、仮通夜も行われた縁だ。立ち止まって見る人はいなかったが、供物台の上には湯呑とマスク、脇にはこぢんまりとした新しい花が置かれてあり、炊かれて間もないと思われる線香の灰もあった。同寺の赤羽海衆・総務課長によると、寺としてはそうした供養を今はやっていないが、遺族ら関係者が不定期に訪れているようだという。像の裏に回ると「昭和六十二年二月八日 株式会社ホテルニュージャパン 取締役社長横井英樹 建之」と記してあった。本人が裁判で争っているさなかではないか。台座に刻まれた追悼文が一瞬、むなしく思えてしまった。

 

国土地理院地図に加筆

 


 

碑から受け取ったメッセージ:

「そのカット いのちを削りはしないのか」

あなたは?
 

(阿部 治樹)

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