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先人からのメッセージ~碑に刻まれた災禍の記憶~ ② | 富士山噴火が引き起こした洪水の苦難 酒匂川「文命堤碑」

特集記事インタビュー
先人からのメッセージ~碑に刻まれた災禍の記憶~ ② |  富士山噴火が引き起こした洪水の苦難 酒匂川「文命堤碑」

先人からのメッセージ~碑に刻まれた災禍の記憶~ ②

 

 「天災は忘れたころにやって来る」。物理学者・寺田寅彦(1878~1935)のことばと伝わります。備えをおこたってはいけないという戒めの名言として知らない人はいないでしょう。ただ、私たちはその重みをどこまで実感しているでしょう。近年の出来事を振り返ると「こんなこと想定外だった」と釈明されることが多すぎはしないでしょうか。実のところ人間は元々そう言いたがる生き物なのかもしれません。そんな本性を知っていたから、先人は消してはいけない記憶を碑に刻んで後世に伝えようとしたのではないでしょうか。先人のそんなメッセージの遺る碑が日本各地にあります。国土地理院は天災を後世に伝えるそうした碑の記号を新たに作り、2019(令和元)年から「自然災害伝承碑」として地理院地図に載せ始めました。私たちも、人々の安全と安心を守るためのセキュリティ・ニュースを発信する会社として、天災はもちろん、人が引き起こした禍の記憶を伝える碑も各地に訪ね、先人からのメッセージを紹介したいと思います。「想定外」が一つでも減ることを願いつつ。

 


 

富士山噴火が引き起こした洪水の苦難 酒匂川「文命堤碑」

 

 あの大岡越前守も絡んだ初の「国家的」治水事業

 


 

文命西堤碑。右は「文命宮」
碑の概要
碑名 文命東堤碑、文命西堤碑
災害名 洪水(1708年、1711年、1734年)
災害種別 噴火、洪水
建立年 1726
所在地 神奈川県南足柄市怒田1912番地、同県山北町岸
伝承内容 宝永4年(1707)に富士山が噴火し、大量の火山灰により酒匂川の川床が浅くなったため、宝永5年(1708)、正徳元年(1711)、享保19年(1734)に堤防が決壊し、下流の村々は大きな被害を受けた。

左の写真は文命西堤碑。右側は「文命宮」
右の写真は文命東堤碑。真ん中は一部復元された「文命宮」。左奥は田中丘隅による原文の書かれた碑、右奥は荻生徂徠が手を入れた文の書かれた碑
(碑の概要は国土地理院の「自然災害伝承碑」から)

 洪水が大雨のせいだけではなく、火山の噴火も大きくかかわることを教えるのが「酒匂川(さかわがわ)」だ。静岡県御殿場市の富士山東麓から神奈川県小田原市を貫流して相模湾へ注ぐ延長約42kmの二級河川で、古くから「暴れ川」と呼ばれ、特に現在の神奈川県南足柄市と山北町の境界、大口と岩流瀬(がらせ)近辺ではたびたび氾濫した。拍車をかけたのが、1707(宝永4)年の富士山の噴火だった。この治水事業の苦難を伝えるのが、両市町にある「文命堤(ぶんめいつつみ)碑」である。

 1707年12月16日(新暦)午前10時ごろ、富士山は南東側斜面から大噴火した。歴史書などによれば噴火は16日間断続的に続き、新たに開いた火口(宝永火口)から噴出した火山礫や火山灰などは偏西風に乗って現在の静岡県北東部から神奈川県、東京都、さらに100㎞以上離れた千葉県の房総半島にまで降り注いだ。平安時代の貞観(じょうがん)噴火が溶岩流を噴出する比較的穏やかだったのに比べ、宝永噴火は噴出物を空高く舞い上げる爆発的なものだった。冬季だったことや火口近くに集落がなかったことなどの理由からか、死者の記録は残っていないという。新幹線の窓からも見える宝永火口の大きさを考えると不幸中の幸いというべきか。しかし、推定1.7km3の噴出物は家屋を倒壊させ田畑を覆って耕作不能にしたり、川に流れ込んだ火山灰が川底を浅くして洪水を起こしたりするなど長期間にわたって人々を苦しめた。

酒匂川。左岸から上流の新大口橋方向を望む

 内閣府の中央防災会議「災害教訓の継承に関する専門調査会」の資料などによると、80~90㎝の降灰があった現在の山北町をはじめ多量の火山灰に見舞われた周辺地域は当時、小田原藩領だった。藩は、降灰量があまりにも膨大なため独自での除灰を断念し幕府に対応をゆだねた。幕府は翌1708年、一帯を直轄領に組み入れることを決定、被災地救済資金として全国の藩から48万両(約192億円、1両≒4万円として計算)余りの高役(たかやく)金を徴収した。全国一律の賦課でそれまでには見られなかった租税だったという。災害復興税を導入した日本で初めての国家主導の大規模災害復興事業ともいわれる所以だ。(もっとも、実際に被災地救済のために使われたのは6万両強とされ、残りの約42万両は江戸城の造営などに流用されるなど不明朗会計が行われたと指摘する説もある)

横浜市内から見た富士山。中腹左側に「宝永火口」がある

 ただ、成果は芳しくなく、その年の夏と1711(正徳元)年の夏に大口と岩流瀬の堤防が決壊し下流の村々は大きな被害を受けた。村々の訴えにもかかわらず被災地は十数年間放置され農地は耕作もままならない状態だったが、享保の改革を進めていた第八代将軍徳川吉宗が1723(享保8)年に南町奉行の大岡越前守に治水事業を命じてから事態は大きく動き始めた。大岡越前守は荒川や多摩川の治水工事を手掛けた川崎宿名主の田中丘隅(きゅうぐ、休隅とも)を派遣し、大口と岩流瀬の堤防復旧工事を進めた。丘隅は水勢を弱めるため石を詰め込んだ弁慶枠と蛇篭(じゃかご)を駆使して堤を築き上げ、1726(享保11)年に完成させた。

  現在残る堤は丘隅によるものとその女婿で代官の蓑笠之助(みの・かさのすけ)が修復したもので新大口橋西側の千貫岩あたりから総延長900m余に及ぶ。丘隅は、完成に際して、中国の治水の神とも言われる「禹(う)」の称号にちなんだ「文命宮」と碑を建て、大口堤を「文命東堤」、岩流瀬堤を「文命西堤」と名付けた。東堤の文命宮と碑は南足柄市の新大口橋近くの福沢神社境内に、西堤のものは山北町の岩流瀬橋近くの岩流瀬地蔵尊に隣接した土地にある。東堤側には当時の高名な儒学者・荻生徂徠の文を刻んだ碑もある。

堤防決壊後に造られた堰
人々が持ち寄った石が残ると教えられた場所。
草むらの土に半ばうずもれた石が転がっていた

西堤の碑を解説した同町教育委員会の看板によれば、丘隅は、弁慶枠や蛇篭一つひとつに対して僧侶が陀羅尼(だらに)経を読んでから川岸に積み上げさせたという。陀羅尼はサンスクリット語で「保持する」といった意味のようだが、陀羅尼経は特定の意義よりひたすら唱える呪文のような力を持つお経とされていたらしい。おまじないを唱えて治水の神の霊験あらたかを祈願したということか。それだけ思いのこもった事業だったことがうかがえるエピソードだ。丘隅はさらに、水難を忘れないよう「堤で毎年お祭りをする」「その時みんな蛇篭の材料用に石を1つ持参する」「堤を強くするために果樹を植える」「水防の組合を作る」という教えも遺したという。

 新大口橋のたもとから酒匂川を眺めると、中流域なのに川中や川原に大小の岩石がゴロゴロしているのに驚く。大水が出てこれらの岩石を含んだ濁流に襲われたなら……。想像するだけでも恐ろしくなる。まず西堤を訪ねてみる。幹線道路から川岸に沿う脇道の横に設けられた柵内に文命宮と碑があった。後ろには住宅が並ぶが、ひっそりとしている。碑に近づいてみると碑の底部に「田中丘隅」と彫られた文字が読み取れた。宮と碑はどっしりと立って流れを見守っているが風雨で黒ずみ、3世紀近い時の流れを否が応でも感じさせた。

 そこから新大口橋を渡って東堤へ。福沢神社は橋から50mほどの所にあり、宮と碑は境内の川に近い側に並んでいた。こちらの文命宮は西堤の宮を見本に一部復元されたもの。ほかに蓑笠之助ら修復に携わった技術者の名前が彫られた碑やお地蔵さんなども置かれ、境内の外の東堤には堤の由来や工法、近隣の歴史などを説明した看板があり、散策路もある。犬を散歩に連れてきた女性に尋ねると、現在でも神社では5月5日に祭りが開かれているという。しかし、治水事業にちなんだ行事があるわけではなく、あまり堤の歴史に関心は持たなかったそうだ。ただ、小さいころに、祭りに来る人は石を持ってくる習わしがあったと聞いたことはあった。その名残だといわれている場所に案内してくれた。そこは堤の一角で「水防用石材」と書かれた柱が立っていた。確かに、根元の草むらには地面に半ばうずもれた石がいくつも転がっている。丘隅の教えの一部ではあっても、時代を超えて人々に伝わり続けたことに少し救われる気がした。

 

国土地理院の表と地図をもとに作成

 


 

碑から受け取ったメッセージ:

「見直して 遺る習わしその意味と」

あなたは?
 

(阿部 治樹)

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