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【連載】先人からのメッセージ ~碑に刻まれた災禍の記憶~

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【連載】先人からのメッセージ  ~碑に刻まれた災禍の記憶~

先人からのメッセージ ~碑に刻まれた災禍の記憶~

「天災は忘れたころにやって来る」。物理学者・寺田寅彦(1878~1935)のことばと伝わります。備えをおこたってはいけないという戒めの名言として知らない人はいないでしょう。ただ、私たちはその重みをどこまで実感しているでしょう。近年の出来事を振り返ると「こんなこと想定外だった」と釈明されることが多すぎはしないでしょうか。実のところ人間は元々そう言いたがる生き物なのかもしれません。そんな本性を知っていたから、先人は消してはいけない記憶を碑に刻んで後世に伝えようとしたのではないでしょうか。先人のそんなメッセージの遺る碑が日本各地にあります。国土地理院は天災を後世に伝えるそうした碑の記号を新たに作り、2019(令和元)年から「自然災害伝承碑」として地理院地図に載せ始めました。私たちも、人々の安全と安心を守るためのセキュリティ・ニュースを発信する会社として、天災はもちろん、人が引き起こした禍の記憶を伝える碑も各地に訪ね、先人からのメッセージを紹介したいと思います。「想定外」が一つでも減ることを願いつつ。

 


 

堤防が決壊した箇所。
右側に大きく水が流れ込んでいる
(狛江市のホームページから)

①「衆人環視」の首都水害 「多摩川堤防決壊の碑」

テレビで中継された「マイホーム」の流出

 

神奈川県川崎市多摩区の登戸駅から多摩川にかかる多摩水道橋を渡ると東京都狛江市に入る。橋の上から眺める多摩川は流れも穏やかで河川敷には散歩やジョギング、日向ぼっこを楽しむ人たちの姿が見える。一見、のどかな憩いの川そのものだ。しかし、1974年9月、川はまったく違う容貌をさらけ出した。その顔を忘れないようにと設置されたのが、同市猪方4丁目の河川敷にある「多摩川決壊の碑」である。


 

横浜市内から見た富士山。
中腹左側に「宝永火口」がある

② 富士山噴火が引き起こした洪水の苦難 酒匂川「文命堤碑」

あの大岡越前守も絡んだ初の「国家的」治水事業

 

洪水が大雨のせいだけではなく、火山の噴火も大きくかかわることを教えるのが「酒匂川(さかわがわ)」だ。静岡県御殿場市の富士山東麓から神奈川県小田原市を貫流して相模湾へ注ぐ延長約42kmの二級河川で、古くから「暴れ川」と呼ばれ、特に現在の神奈川県南足柄市と山北町の境界、大口と岩流瀬(がらせ)近辺ではたびたび氾濫した。拍車をかけたのが、1707(宝永4)年の富士山の噴火だった。この治水事業の苦難を伝えるのが、両市町にある「文命堤(ぶんめいつつみ)碑」である。


 

汐留公園。沼野玄昌の遺体は
河口近くで見つかった

③ コレラまん延防止を誤解され犠牲に 鴨川市「医師殉難の碑」

コロナ禍にも通じる恐怖と根拠のない思い込み

 

いつ終息するか見通せない「コロナ禍」のなか、私たちは重苦しい日々を怯えながら送っている。その恐怖と、ウイルスの本性がまだ見極められていないことの裏返しとみられる偏見や差別が、医療従事者に向けられた。現時点でもなくなっていないそうした出来事は、人の心の暗部を見せつけているようで何ともやるせない。一筋の光明は高い有効性が報告されているワクチンがあることだが、そうした出口が見えなかった時代、得体の知れない病への恐怖は、より悲劇的な結末を招いていた。事件を語るのは、明治初期のコレラ禍のさなかで殺された医師を悼む千葉県鴨川市の「烈医沼野玄昌先生弔魂碑」である。


 

火災を伝える写真
「東京消防庁事務年鑑昭和57年」から

④ ホテルニュージャパン火災 増上寺「聖観世音菩薩」像

33人死亡、厳しく問われた経営者の責任

 

どこにも逃げ場がなくなった時、人の目には地面が近いと映ってしまうのだろうか。それとも絶望のせいなのか。炎と煙に追い詰められた宿泊客が9階あるいは10階から飛び降りる衝撃的な映像が目に焼き付いている。1982(昭和57)年に東京であったホテルニュージャパンの火災。亡くなった人は33人、そのうち飛び降りて命を落とした人は13人にも上る。首都のど真ん中で発生した大惨事。ずさんな防火体制が明らかになり、経営者は厳しく責任を問われて実刑に服した。その悲惨な火災で亡くなった人たちの慰霊のために建てられたのが、大本山増上寺(東京都港区芝公園4丁目)境内にある「聖観世音菩薩」の像である。


 

当時の被害の様子を伝える写真
「大正六年十月一日暴風被害」都立中央図書館蔵

⑤ 東京湾の高潮被害 持宝院「大正六年海嘯横死者供養塔」他

新たな脅威 「温暖化」がもたらす凶暴台風

 

「高潮」といわれても、その怖さがピンとこない人が多いかもしれない。私自身、津波や堤防決壊の方に関心が向きがちだった。しかし今回、東京都江東区の「ゼロメートル地帯」を訪ね歩いて考えが変わった。高潮は決して侮ってはいけない災害だったのだ。中でも持宝院(同区北砂4-22-6)の「大正六年海嘯(かいしょう)横死者供養塔」や道端のほこらにある「砂村波除地蔵由来碑」(同区南砂2-23-9)は1917(大正6)年にあった高潮被害の恐ろしさを今に伝える。近年は「地球温暖化」がもたらす「凶暴化」した台風が日本に接近する例が増えていることを示すデータも明らかになった。高潮は古くからあり、かつ今また新たな脅威にもなっている。


 

JAあきがわに残る「闍婆菜種御請証文」
種子の受領署名と栽培のしかたなどが
記されている(JAあきがわ
「のらぼう菜の歴史
-ja-akigawa.or_.jp」から)

⑥ 飢饉しのいだ「備え」と「分かち合い」の碑

「フードロス」と「コロナ禍」の現代日本に伝えるもの

 

「飢饉」……。娘の身売りや餓死、果ては人肉食いまで思い浮かぶおぞましい言葉だが、今の日本には無縁だと思っている人が多いのではないだろうか。確かに、かつてのような惨状は現代日本では起きないだろう(と思いたい)が、敗戦直後の食糧難や昭和初期の東北飢饉は、そう遠い昔の話ではない。しかも、日本には「貧しさによる飢え」もあり続けている。一方で、食品ロスが年間600万トンにも達する日本。東京都あきる野市に残る「野良坊菜(のらぼうな)の碑」と「ところ芋の碑」は、飽食の中に飢えが存在する私たちの時代への戒めそのものだと感じる。


 

栃木県足利市内の洪水の様子を伝える写真
「カスリーン災害記録集Ⅰ
洪水写真集」から)

⑦ 北関東から東京まで被害を及ぼしたカスリーン台風

戦争で放置された治水の反省を記す二つの碑

 

「カスリーン台風」ほど、戦争が影を落とした台風はないように思う。まず名前。敗戦を機に日本を占領した連合国軍司令部(GHQ)は気象関連業務も徹底管理し、しばらくの間、日本を襲う台風にはアメリカ流に女性の名前を付けた(カスリーン⦅Kathleen⦆は英語・アイルランド語圏の女性の名前)。そして、大きな被害。この台風による死者・行方不明者は群馬県や栃木県、埼玉県など北関東を中心に1930人(理科年表)にのぼる。埼玉県加須市にある利根川と渡良瀬川の「決潰口碑」は、なぜか内容をぼかして紹介されることも多いのだが、碑の原文は、世が戦争に突き進んで治水を顧みなかったことが大きな被害を招いた原因だと指摘している。


 

手賀沼の渡し舟
(柏市教育委員会教育研究所、
財団法人 東葛地方教育研究所編集
「伝えよう手賀沼を」から)

⑧ 男性が戦争に駆り出された戦時下の教育

手賀沼の水難事故で亡くなった若い女性教員らを悼む碑

 

ありったけの国力を戦争に向けていた1940年代前半、男性は戦地に駆り出され国内では「銃後の守り」と称して軍需物資の製造工場を中心に様々な場面で女性が「勤労奉仕」を課せられていた。国民学校などの教育現場でも男性は校長や教頭だけで他は女性教員という状態になっていった。女学校を卒業したばかりの十代の先生もいた。そんなご時勢の1944(昭和19)年、千葉県の手賀沼で教育研修の会場に向かう途中だった若い女性教員らを乗せた渡し舟が強風にあおられて転覆し、18人が亡くなる事故が起こった。定員超過が原因とされるが、沼の近くにある我孫子市中里の市立湖北小学校には犠牲者を悼む「手賀沼殉難教育者の碑」が建っている。


 

皇居前広場に避難した群衆の写真。
こちらでも家財道具を載せた多くの荷車が見える
(横網町公園の復興記念館に展示されている
震災当時の写真の一部)

⑨ 近代化首都圏を襲った初めての巨大地震「関東大震災」

火災旋風の恐ろしさ伝える横網町公園内の碑

 

1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災は死者・行方不明者が約10万5000人を数える。2011(平成23)年3月11日に起きた東日本大震災の死者・行方不明者約2万2000人をはるかに上回り、日本では最大の犠牲者を出した震災である。その死者・行方不明者のうち実に9割近くが火災によるもので、火の恐ろしさをまざまざと見せつける災禍でもあった。東京府(当時)では約6万7000人が火災で犠牲になったが、その半数あまりの約3万8000人が本所区(現墨田区)横網(よこあみ)町の旧陸軍被服廠跡で亡くなっている。これほどの被害となった最大の原因は、火の竜巻とでもいうべき「火災旋風」だった。跡地の一部は東京都立横網町公園となり、園内には隣接する町内の犠牲者らを慰霊する碑や堂などが設置されている。


 

香取神社の鳥居とその先が事件現場
となったと説明する市川さん

⑩ 関東大震災、闇に埋もれていた日本人惨殺「福田村事件」

行商団の幼児、妊婦を含む9人の犠牲者を慰霊する墓碑

 

デマが飛び交って多数の朝鮮人らが虐殺された関東大震災。理不尽がまかり通った異常な集団心理状態の中で、旧福田村(現千葉県野田市)では日本人が犠牲になっていた。殺されたのはごく普通の人たちだった。香川県から薬の行商に来ていた15人のうちの9人。3人の幼い子どもや妊婦までもが日本刀やとび口、猟銃などで惨殺された「福田村事件」である。事件は半世紀余りの間、歴史の闇に埋もれていたが、1980年代になってから歴史教育に携わる人や人権問題に取り組む人たちが生存者から証言を聞くなどして、少しずつ真相を掘り起こしてきた。背景には社会の「複合差別」が浮かび上がる。辛く知りたくなかったけれど目を背けてはいけないもう一つの史実。2003年には、事件を記憶し犠牲者を慰霊する墓碑が、現場近くの寺に建立された。


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