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先人からのメッセージ~碑に刻まれた災禍の記憶~ ① | 「衆人環視」の首都水害 「多摩川堤防決壊の碑」

特集記事インタビュー
多摩川決壊の碑

先人からのメッセージ~碑に刻まれた災禍の記憶~ ①

 

 「天災は忘れたころにやって来る」。物理学者・寺田寅彦(1878~1935)のことばと伝わります。備えをおこたってはいけないという戒めの名言として知らない人はいないでしょう。ただ、私たちはその重みをどこまで実感しているでしょう。近年の出来事を振り返ると「こんなこと想定外だった」と釈明されることが多すぎはしないでしょうか。実のところ人間は元々そう言いたがる生き物なのかもしれません。そんな本性を知っていたから、先人は消してはいけない記憶を碑に刻んで後世に伝えようとしたのではないでしょうか。先人のそんなメッセージの遺る碑が日本各地にあります。国土地理院は天災を後世に伝えるそうした碑の記号を新たに作り、2019(令和元)年から「自然災害伝承碑」として地理院地図に載せ始めました。私たちも、人々の安全と安心を守るためのセキュリティ・ニュースを発信する会社として、天災はもちろん、人が引き起こした禍の記憶を伝える碑も各地に訪ね、先人からのメッセージを紹介したいと思います。「想定外」が一つでも減ることを願いつつ。

 


 

「衆人環視」の首都水害 「多摩川堤防決壊の碑」

 

 テレビで中継された「マイホーム」の流出

 


 

多摩川決壊の碑 多摩川水害
碑の概要
碑名 多摩川決壊の碑
災害名 多摩川水害 (1974年8月31日~9月3日)
災害種別 洪水
建立年 1999
所在地 東京都狛江市猪方四丁目
伝承内容 昭和49年(1974)台風16号の影響で多摩川の水位が上昇し、この増水により、二ヶ領宿河原堰の取付部護岸の一部が破壊された。激しい迂回流により高水敷が浸食され、本堤防が決壊し、家屋19棟が流失する被害をもたらした。

(碑の写真と概要は国土地理院の「自然災害伝承碑」から)

 神奈川県川崎市多摩区の登戸駅から多摩川にかかる多摩水道橋を渡ると東京都狛江市に入る。橋の上から眺める多摩川は流れも穏やかで河川敷には散歩やジョギング、日向ぼっこを楽しむ人たちの姿が見える。一見、のどかな憩いの川そのものだ。しかし、1974年9月、川はまったく違う容貌をさらけ出した。その顔を忘れないようにと設置されたのが、同市猪方4丁目の河川敷にある「多摩川決壊の碑」である。

 狛江市のホームページや国交省の資料などによると同年8月26日、サイパン島付近で発生した台風16号は次第に北上し、28日9時には中心気圧960hPaの大型台風に発達した。多摩川上流域では30日夜から雨が降り始め、関東地方に停滞していた前線も影響して9月1日になっても強い雨が降り続いた。上流の小河内ダムは貯水限界量を大幅に超えたため放水を開始。その量は最高時で毎秒700t、実に通常の35倍だったという。

堤防が決壊した箇所。
右側に大きく水が流れ込んでいる
(狛江市のホームページから)

 この日は防災の日。同市は防災訓練を予定していたが、急きょ水防活動に切り替え、見る見るうちに上がっていく川の水位を監視していた。同日14時ごろ、二ヶ領宿川原堰(にかりょうしゅくがわらぜき)の左岸側で小堤防が崩れ始め、消防や建設省(現国交省)、警察などの職員らによる土のうを積むなどの活動にもかかわらず、堰で妨げられた水流(迂回流)は勢いを増して本堤防に押し寄せた。とどまることを知らない迂回流は次第に堤防を崩していき、ついに同日21時45分、本堤防が5mにわたって決壊した。住宅地に流れ込んだ濁流は民家を倒して押し流し、2日の朝までに10棟を流失させた。

浸水した地域をうかがわせる電柱のプレート
浸水した地域をうかがわせる電柱のプレート

 その日9時すぎ、川の流れをせき止めていた堰を爆破して水流を変えることが決定。同日14時半過ぎに堰の破壊を試みるも、流れにほとんど変化はなかった。一方で、飛び散ったコンクリート片で近隣の住宅に被害が出た。それでも爆破作業は続けられ、結局4日20時15分までの計13回の爆破で堰に幅約12m、深さ約2mの口が開き、毎秒約50tの水が流れ出してようやく水流が変化した。この間、家の流失は続き、合わせて19棟が多摩川に流された。一連の様子はテレビで全国に流され、多くの国民の目に水害の恐ろしさと「マイホーム」を失った人の無念さを焼き付けた。(これを題材にしたドラマ「岸辺のアルバム」も放映され、その中の情景として覚えている人も多いだろう。原作・脚本を書いた山田太一は、流された家とともに家族のアルバムを失ったことを悲しむ被災者から構想を得たという)

 災害から2年後、家を流された住民をはじめとする30世帯33人が、国を相手取って国家賠償を求めて提訴した。国の管理に「瑕疵があったのか」、堤防決壊は「天災なのか人災なのか」が問われた。一審は原告住民が勝訴。二審の控訴審では国が勝訴した。これを不服として原告側が上告した最高裁では二審の判決が破棄差し戻しとなり、1992(平成4)年、差し戻し控訴審で住民が勝訴して判決が確定した。提訴から16年がたっていた。

堤防決壊後に造られた堰
堤防決壊後に造られた堰

 碑は1999(平成11)年3月27日、建設省京浜工事事務所と狛江市が建てた。三角錐の碑三面のうち一面には堤防が決壊して住宅地が浸水している写真、もう一面には碑文があり、こう述べている。「(前略)建設省は、災害直後から速やかに本堰周辺の復旧工事を進め、翌年には完了させるとともに、『多摩川災害調査技術委員会』を設置し、いち早くその原因の究明にあたりました。一方、被災住民は国家賠償法に基づき提訴し、河川管理の瑕疵について改めて指摘された水害ともなり、平成4年(1992)に判決が確定しました。平成10年(1998)、従来の堰より40m下流に洪水を安全に流すとともに、豊かな水辺環境の保全と創造を目的とした新しい堰が完成しました。ここに、水害の恐ろしさを後世に伝えるとともに、治水の重要性を銘記するものです」

碑があった場所-堤防のかさ上げ工事を知らせる看板

 現地を訪ねると、一帯は堤防のかさ上げ工事中だった。「え、今になっても?」。そんな驚きが沸き上がった。肝心の碑は設置場所になく、狛江市が保管中だという。工事は6月末までの予定だが、工事が予定通り終わるのか不確定のようで、碑をいつ戻すのかについて市の担当者は「はっきりとは決まっていません」と話していた。浸水した町内を歩いた。被害をうかがわせる痕跡は見当たらない。しいていえば道端の電柱に取り付けられた浸水予想水位を知らせるプレートぐらいか。近くの住宅の玄関先にいた住民に声をかけると「ここらの数軒は20年くらい前に建ったもの。水が来たとは聞いているけどね…」と詳しいことは知らない様子だった。47年前の災害と進行中の堤防かさ上げ工事。この二つ、私の頭の中では強烈にリンクしあっていた。
 

国土地理院標準地図に加筆
「自然災害伝承碑」の記号

 


 

碑から受け取ったメッセージ:

「忘れるな。憩いの川にも牙はある」

あなたは?
 

(阿部 治樹)

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