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株式会社セキュリティ 代表取締役:上園俊樹① 【私の警備道】~第1回 サラリーマンから警備業への転身~

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株式会社セキュリティ 代表取締役:上園俊樹① 【私の警備道】~第1回 サラリーマンから警備業への転身~

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近大マグロの養殖に明け暮れた大学時代、人事部に配属され人材採用の経験を積んだサラリーマン時代、覚悟を決めて警備業の世界に足を踏み入れ34年。魅力溢れる警備業のあり方を目指して警備道を邁進し続ける!

 

第1回 サラリーマンから警備業への転身

 
1988年(昭和63年)、埼玉の地に「株式会社セキュリティさいたま」を開業。安全と信用をスローガンに、独自の採用システムと専任教官による教育システムで人材を育成し、新時代に向けたセキュリティを目指し躍進。その機動力の源となっているのが、現社名「株式会社セキュリティ」代表取締役の上園俊樹である。


 

応援団で鍛えられたバンカラ精神

 

1950年(昭和25年)11月8日、青森県八戸市で生を受けた上園は、小学3年生までこの地で過ごし、その後、保険会社に勤める父親の異動により、母親の実家であり本籍地でもある鹿児島へ引っ越すことになる。ところが、小学6年生のときに、再び東北の地へ引っ越すことになり、高校を卒業するまでの多感な時期を、杜の都・仙台で過ごす。

上園にとって、仙台での暮らしは少年時代で一番思い出深く、輝けるものだったという。特に印象深いというのが高校時代。応援団に所属していた上園は、広瀬川のほとりで喉から血が出るほど大声を張り上げ練習し、上り下りの多い仙台の街中を、高下駄を履いて自転車に乗って通学するような、バンカラ少年だった。そんな仙台の暮らしで培われたバンカラ精神は、その後の上園の人生においても随所で発揮されることとなる。

そんな思い出深い仙台からは高校卒業とともに離れ、上園は近畿大学を受験し進学する。この大学を選んだ理由は「栽培漁業」にあった。当時、日本の食料事情について関心を抱いていた上園は、島国の日本で魚が捕れなくなることを危惧していたところがあり、栽培漁業を行っている唯一の大学が近畿大学であることを知り、農学部水産学科を選んだのだという。


 

近大マグロの養殖に明け暮れた大学時代

 

養殖研究の成功の要因のひとつとなった「網いけす(小割)式養殖」
写真は近年の網いけす(写真提供/近畿大学水産研究所)

1948年(昭和23年)、全国の漁協の漁獲高が落ち込んでいたことから、近畿大学初代総長の世耕弘一が「栽培漁業」を提唱。和歌山県白浜市の協力を得て、白浜臨海研究所を開設。「網いけす(小割)式養殖」によって、水産養殖が大きく進歩。1965年(昭和40年)には、世界で初めてヒラメの人工ふ化、種苗生産に成功。1970年(昭和45年)からマグロの養殖研究を開始。

1979年(昭和54年)に世界で初めてマグロの産卵に成功して約160万個の卵をふ化させ、最長47日間の飼育に成功。1995年(平成7年)には、世界で初めて人工ふ化クロマグロの稚魚87匹を放流することに成功。そして、2002年(平成14年)、32年の歳月をかけてマグロの完全養殖に成功することとなる。(近畿大学水産研究所ホームページから)

それが今ではブランド魚として名高い「近大マグロ」である。

「近大でマグロの養殖が始まったのは、私が入学した頃でした。大学の本校があるのは近鉄大阪線の「長瀬駅」近く、水産研究所があるのは南紀白浜。年の半分は水産研究所の寮暮らしで、自分でも何やっているんだろうと思うくらい、ひたすらエサやりの日々。専門分野である生物の勉強も大変だったし、生活するためにアルバイトもしなくてはいけない忙しい毎日。でも、大学時代は魚の養殖にかかりきりだった印象が強い」と、上園は当時を振り返る。

残念ながら、上園が在学中にマグロの養殖は実現できなかったのだが、水産学科の多くの学生たちが積み重ねた苦労が見事に実ったわけだ。まさに「継続は力なり」である。


 

「警備の仕事は面白い」という話を聞いて……

 

大学卒業後、食品に関連した企業に就職したいと考えていた上園は、1973年(昭和48年)、大手スーパーマーケットチェーンの株式会社西友ストアーに入社。社会人としての第一歩を歩み始める。最初に配属されたのは、埼玉県・狭山市駅前の店舗だった。その後、人事部へ異動となり池袋の本社勤務となる。

「当時の西友ストアーでは、新規採用者の多くは地方在住の高校生が主でした。そこで採用担当になると、大量採用できそうな高校へ挨拶まわりによく地方に出向きました。人事を担当しているときは、そんな業務もあって年に3か月くらいは地方に出張していました」

そんな地方回りの人事業務も、後に上園が警備会社を経営するうえで役立つことになる。

さて、人事部に配属されて約6年後、上園は再び店舗業務に異動となる。そして、埼玉県・小手指の店舗に配属されたときに知り合った土木工事会社の社長から面白い話を聞く。その話の中に出てきたのが「警備」という仕事だった。その社長の話とは、あるゼネコンから請け負った仕事で交通誘導員を手配したところ、膨大な警備料金がかかったというのだ。現在のように警備業が体系化されていなかった時代。「警備業は面白い」「警備業は儲かる」そんな社長の話を聞いているうちに、警備業に対する上園の関心が高まっていった。

ちょうどその頃、人事部から店舗に異動となった上園は、ある不満というか疑問のようなものを抱いていたという。

「部署や店舗が変わると、それまで培ってきたスタッフやお得意さんとの信頼関係を、また最初からつくらなくてはならない。もし、新たな関係が構築されたとしても、また異動になれば同じことの繰り返しになる。自分が人事部にいたので、上司の指示で簡単に異動が決まってしまう世界というか、組織に馴染めないところがあったのかもしれない」と、上園は当時の心境を思い返す。


 

共同で立ち上げた警備会社を辞め独立を決意

 

そこで上園は、12年間勤めていた株式会社西友ストアーを辞める決意をする。当時、会社が急成長を遂げていた中での退職だったので、周囲から思い留まるように説得もされた。しかし、例え小さな会社でも、自分の意思、自己責任でできるような仕事をしてみたい。そんな思いが強くなり、警備業の話を聞いた土木工事会社の社長と共同で警備会社を立ち上げこととなる。

こうして、1985年(昭和60年)に、東京都内に警備会社を設立し、上園は取締役総務部長に就任。警備業の世界へ足を踏み入れることになる。

そんな地方回りの人事業務も、後に上園が警備会社を経営するうえで役立つことになる。

会社の業績が順調に伸びていく一方、上園にはなんとなく釈然としない思いが湧いてきたという。独立するという思いで会社を立ち上げたのに、このまま役員で終わってしまっていいのか。自分も代表取締役としてやるべきではないのか。そうでなければ、どんなに自分が頑張って会社が大きくなっても、自分の意に沿うものになるとは限らない。自分で資金を調達して自分で会社を経営してみたい。そんな思いが膨らみ続けていたのだ……。


 
第2回 株式会社セキュリティ設立
独立・起業で一国一城の主人に! / ふりかかる警備業の難題 / 東日本大震災復興支援活動

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