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株式会社アーク警備システム 代表取締役会長 兼 社長:嶋崎八洲男① 【私の警備道】~第1回 やればできる、必ずできる~

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株式会社アーク警備システム 代表取締役会長 兼 社長:嶋崎八洲男① 【私の警備道】~第1回 やればできる、必ずできる~

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第1回 やればできる、必ずできる

 


 

少年時代に培われていた商才

 

嶋崎八洲男会長-兼-社長

 お客様に喜ばれる警備を心がけ、安全・安心・健康・信頼・情熱・奉仕をキーワードに、激変する時代のニーズに対応したサービスを提供し続けるアーク警備システム。1993(平成5)年、渋谷区幡ヶ谷で創業した小さな警備会社は、首都圏とベトナムに合わせて14拠点を持つまでに成長。現在、会長兼社長として5つのグループ会社を率いる嶋崎八洲男(78)。しかし、ここまでの道のりは平坦なものではなかった。

 1943(昭和18)年、エリートサラリーマンの父と、芯のしっかりした昔気質の母との間に、1女3男の次男として生まれた嶋崎。生まれ育った島根県江津市は、市の中央部に江の川が南北に流れ、その河口を中心に日本海に向かって大きく開けた街。海あり山あり川ありで、昭和30年代の子供たちにとっては遊び場の宝庫のような所。しかし、嶋崎はただ遊ぶだけではなかった。浜でとったハマグリや川でとった沢ガニを売り歩き、山でかすみ網(現在は使用禁止)を仕掛けて捕獲した山鳥を鳥屋に持っていき買ってもうなどして小遣い稼ぎをしながら、家計のやりくりに困っている母にお金を貸しては利息をつけて返してもらうなど、ちゃっかりしたところのある少年だった。嶋崎の商才は、どうやらこの頃に芽生えていたようだ。

一番上に立っている少年が嶋崎氏。
左下のランニングシャツの美少年が兄

 野山を駆け回る元気なガキ大将、地元ではそんなイメージが強かった嶋崎少年。気性が荒くしょっちゅう問題を起こしては母に叱られ家を飛び出していたという。そんな少年時代、実は日々寂しい思いを募らせていたのだという。長男のように大事にされることがなく、姉や弟のように可愛がられることもなく、両親の愛情に飢えていたというのだ。そのため、母の気を引こうとした行動が逆の結果になることが多かったのだという。

 荒ぶる性格は高校に入学しても変わることはなく、授業をさぼって遊びまわっては、他校の不良と喧嘩ばかりしていた。そんな調子だったので、卒業を迎えたときには不良のレッテルを貼られた嶋崎には就職先の案内さえなかった。高度経済成長期、高卒生が金の卵としてもてはやされていた時代である。そこで嶋崎は「ブラジル移民大成功」の新聞記事に興味を抱き、真面目に移民を考えたものの条件に合わず断念。結局は担任が紹介してくれた、日本橋馬喰町の文具会社に就職が決まり、1962(昭和37)年3月、集団就職の夜行列車に乗って故郷を後にすることになる。


 

奇跡の大学合格

 

 仕事は全国の文房具店に送る商品の梱包が主だった。指図をするのは背広を着た大卒従業員。作業着姿で梱包作業を繰り返す日々を送りながら、嶋崎は大卒従業員と自分の格差をひしひしと感じるようになっていた。仕事のミスが続いて自信をなくしかけていた自分に比べ、背広姿で仕事をする大卒従業員は自信に満ちているように見えた。「自分も大学を出て人生を変えたい……」一念発起した嶋崎は大学を目指すことを決心し、田舎の両親に手紙を書いた。しかし、両親には賛同してもらえなかった。そんな両親を説得してくれたのは、成績がよかったのに大学に行かず、先に社会人になって働いていた兄だった。嶋崎は就職してたった3か月で退職。小田急線・喜多見駅近くの浪人生専門のアパートから代々木駅近くの予備校に通うことになる。

 予備校生は大学受験で猛勉強した人ばかり。それまで真面目に勉強したことがなかった嶋崎に講義は難し過ぎた。それでも猛勉強の甲斐あって、秋の全国模擬試験では「合格ラインまであと一歩」という評価がもらえるまでになった。そして、大学入試では志望校の東京6大学こそ不合格だったものの、東洋大学法学部に見事合格。高校時代までの荒くれた人生を考えれば、誰も想像すらできないような出来事だった。しかし、嶋崎は再び浪人して東京6大学を目指す。猛反対する周囲を収めてくれたのは、またもや兄だった。

 こうして、また浪人生活が始まったのだが、その年の6月に腸閉塞になり命を失いかける。「自分の身勝手で浪人生活を送らせてもらっているのに、親戚や友人までに迷惑をかけっぱなしで情けなかった」と、嶋崎は当時を振り返る。入院生活は3か月におよび、退院したのは9月中旬。思うように受験勉強できなかったにも関わらず、志望校のひとつだった明治大学政経学部経済科に合格。まさに奇跡だった。このとき嶋崎の心に湧いた「やればできる、必ずできる」という強い信念は、その後の人生の心の支えになっていく。


 

橋本龍太郎との出会い

 

明治大学生時代、演説大会で熱弁する嶋崎氏。
故・橋本龍太郎氏とも交流があった

 1965(昭和40)年4月、晴れて明大生となった嶋崎は、大野伴睦(元自民党幹事長)、三木武夫(元総理大臣)、荒船清十郎(元運輸大臣)、山口敏夫(元労働大臣)ら、大物政治家を排出した伝統ある雄弁部に入部。ガキ大将、札付き少年だった嶋崎は、意外なことに小さい頃から人前で話すことが苦手な「あがり症」というコンプレックスがあった。その性格を治したいというのが入部の動機だった。先輩にみっちりしごかれながら「やればできる、必ずできる」という信念のもと、あがり症は次第に解消されていく。

 2回生となった嶋崎は、自由民主党学生部主催の「第1回部長杯争奪演説大会」に出場。当時、大きな社会問題になっていたアメリカの原子力潜水艦の日本への寄港問題について演説した。それが縁で、そのとき自民党の学生部長だった橋本龍太郎(当時27歳)と出会い、後に明大に「自由主義研究会」が創設され嶋崎が初代委員長に選出されると、自由主義発展のため橋本龍太郎と行動を共にすることになる。翌年1月には「明大紛争」が勃発。学費紛争が発端となり、予定していた団交で学生スト派と反スト派が対立し、機動隊が出動する騒ぎとなった。嶋崎は学費値上げ反対派で参加。その場には、後に赤軍派として知られることになる重信房子女史もいた。

 3回生になった嶋崎は、経営心理学をテーマにした「中野渡ゼミ」に所属。学内でも評判のゼミで、厳しい競争を勝ち抜き合格者25名のひとりに選ばれた。しかも、ゼミ長に立候補して当選も果たしている。ゼミの課題は「働く人の心理と生産性について」の相関を科学的に証明すること。中野渡氏が顧問をしていた家具メーカーにゼミ生が泊まり込んで行なった調査は、会社組織や意思決定の仕組みなど、机上で考えることでは分かり得ないことばかりで興味深いものだったという。ゼミで学んだことは後の会社経営に大いに活かされることになる。


 

天国と地獄の往来

 

 4回生になり就職活動を始めた嶋崎は、音響機器メーカーの帝国電波(現・クラリオン)への入社が内定。内定に至った経緯がユニークで、学校推薦を受けられなかった嶋崎が帝国電波本社に乗り込んで人事課長に直接交渉したところ「君のようなバイタリティ溢れる人材を求めていた」と、入社試験を受けられることとなり、合格したといういきさつだった。ところが、またもや嶋崎は病魔に襲われ、運命を左右されることになる。食事をおろそかにして読書やゼミ、遊びと奔放な学生生活を送っていたツケが回ってきたのだろう、密かに病が進行していたのだ。1968(昭和43)年2月に肋膜炎であることが判明、帝国電波からは内定取り消しの通知が届く。容態は悪化し闘病生活に苦しみ、大手術が行われることになった。まさに天国から地獄である。

 ところがここでも奇跡が起きた。一転、手術の必要がなく完治するということが分かり、5月に退院の運びとなったのだ。奇跡的な生還を遂げた嶋崎の人生はその先へ続くことになり、その年の秋には株式会社社会調査研究所(現・株式会社インテージ)の中途採用募集に応募して合格。社会人としての新生活をスタートさせた。これまで、人生を左右するどころか命を落としかねないような大病に見舞われたが、この後は病気知らずの健康体となり人生をつき進んで行く。

 

(藤原 広栄)


 

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